第15話 花嫁の武装

エメが見慣れぬ部屋で目を覚ましてから、数時間が経っていた。


部屋に満ちる、古い書物と冬の朝のような冷たく澄んだ香りが、ここが王子ルビウスの私的な空間であることを告げていた。ベッドサイドにはグラスに注がれた一杯の水と、「何かあれば鳴らすように」という書き置きが添えられた小さな銀の鈴が置かれていた。


やがて隣の執務室へと繋がる扉が音もなく開かれ、ルビウスが現れた。その表情に昼間の動揺はもうない。


「…目が覚めたか」


彼の瞳が、一度も鳴らされていない銀の鈴を一瞥し、それからエメへと向けられた。彼はエメのすぐ側で足を止めると、水の入ったグラスを手に取り彼女に差し出した。


「顔色が悪い。まだ熱があるのだろう。それを飲んで、今日は休むといい」


その声は穏やかだったが、瞳の奥は絶対零度の光を宿していた。


「お前の話とやら。明日もう一度チャンスをやる。…だから、今夜は良い子で眠っていることだ」


子供をあやすような、しかし決して逆らうことを許さない絶対的な支配者の言葉。

エメはその冷たい親切をただ受け取ることしかできなかった。



ルビウスが去った後、エメは来るべき明日の対決に向けて思考を巡らせていた。


「日向の氏族」、「太陽の瞳」、「母によって凍てついた太陽」。

―――そして、それを突き付けた時の、彼の隠しきれない動揺。

ルビウスはただの暴君ではない。突くべきは、その魂の傷口。


手のひらのムーンストーンは、昼間の熱を冷ませないでいた。


(…カイ)


彼は今、どうしているだろう。

意識を手放す寸前、ムーンストーンが肌を鋭く刺すように、熱く燃えたのを覚えている。あの灼熱の痛み。きっと彼にも伝わってしまっただろう。危険を顧みず城に乗り込んでくるような彼のことだ、冷静でいられるはずがない。


(…止めなければ)


エメは石を強く握りしめ、再びその思いを飛ばした。


(カイ、聞こえますか。わたしは生きています。大丈夫。だから信じて待っていて)



絶望にカイは身を焦がしていた。

カイを追ってきていたルナとロウの姿もそこにあった。


「…カイ。黙って一人で城に乗り込んだわね。どれだけ危険かわかっているでしょう!二度目はないわ」


「離せ、姉さん! あいつが、エメが危ないんだ! 石がそう伝えてきた!」


ロウが巨木のような体でカイの前に立ちはだかり、その重い口を開いた。


「感情のまま乗り込んで犬死にするのが、あなたの戦いですか」


その言葉に、カイが激情のままロウの胸ぐらを掴んだ、その時だった。

彼の胸元で、今まで焼けるような痛みを放ち続けていたムーンストーンが、突如穏やかな光を纏い始めた。


カイは、はっとする。

そして、柔らかなエメの声が、まるでそこにあるかのように彼の元に届けられた。


―――わたしは大丈夫。信じて待っていて。


カイの腕から力が抜け、彼はかすれた声で呟いた。


「……あいつ、無事だ。…そして、待っていろ、と」


嵐は去った。

しかし、それはより大きな嵐の前の、束の間の静けさだった。



夜が明ける。

コルヴスがエメの元へ一枚のドレスを捧げ持って現れた。王子が選んだという、コランダムの国の色である深紅。美しいがまるで血の色のようだった。銀の糸の刺繍が、雨粒を閉じ込めたように布地をキラキラと飾っている。エメはそれを意を決して身にまとった。長い髪は複雑に編み込み、ドレスと同じ深紅のリボンを飾る。しまいに、その唇に紅をさした。まるで戦支度をするように。それは武装だった。


執務室へ足を踏み入れると、ルビウスが待っていた。

自らが選んだドレスに袖を通したエメを見て、一瞬目を見開いたように見えたが、すぐに冷たく言い放った。


「…俺は退屈が嫌いだ。手短に」


エメは動じない。穏やかな笑みを浮かべ、こう切り出した。


「はい、ルビウス様。わたくし、この城の歴史に大変興味が湧きまして。日向の氏族の物語には、心惹かれるものがございました」


「…またその話か。滅びた一族のおとぎ話に何の意味がある」


彼が背を向け、話を打ち切ろうとする。エメはその背中に向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。


「いいえ、これはおとぎ話ではございません。これはあなたのお話ですわ」


「―――『太陽の瞳』を持って生まれた、ルビウス様の」


その言葉に、ルビウスの動きが完全に止まった。ゆっくりと振り返った彼の顔には、底知れぬ殺意だけが浮かんでいた。


彼は、静かにコルヴスに告げた。


「…コルヴス。ベリルの姫は故郷を離れ少しお疲れのようだ。白の塔で、ゆっくりとお休みいただくのがよかろう」


白の塔。

それは王族や高位の貴族を幽閉するための、決して出ることのできない牢獄の名だった。その冷徹な宣告に、エメは自らの言葉が踏み越えてはならない境界線を踏み越えてしまったことを悟る。


…目眩がする。足に力が入らない。


ふらりとよろめき、頭を抱えたその一瞬。


(これだけは、守らなくちゃ…)


彼女は咄嗟に、ドレスの内側のポケットから抜き取ったムーンストーンを、複雑に編み上げた自らの髪の奥深くへと滑り込ませていた。

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