第6話 今日の雨は長くなりそうだ
金曜日の夜、病院受診が終わり、硝子が本屋に行きたいというので、駅前の本屋に行ってきた帰りだ。新刊の発売日でどうしても買いたかったそうだ。
上機嫌な様子で先を行く硝子。趣味があるのはいいことだ。
駅前から少し離れたバス停に向かう道。背後で怒号が響く。
スーツを着た中年男性がこちらに走ってきていた。道幅が狭く、端に寄ったところで、避けられそうにない。背後を確認する。このままのコースでは硝子とぶつかってしまう。となれば、僕が止めるしかない。
「どけどけどけどけ!——————」
左眼に痛みが走る。走ってきた男の腕に弾き飛ばされて、碌に受け身を取れず頭を強打し、アスファルトに叩きつけられる硝子の姿を視る。
心臓が早鐘を打つ。全身に血液が巡り、自分がどう身体を動かすべきか、瞬時にスイッチを入れる。
中年男性は腕を振り回しながら、周囲を威嚇しながら、真っすぐ僕と接触し——。
相手の右腕を掴み。背後に回す。痛みに耐えられず、身体が自然と下がる。相手の右肘に僕の左腕を当て、体重を掛ける。中年男性は地面に倒れ伏すしかなくなる。顎を打ったみたいで悶絶していた。背中を膝で抑え込み、掴んでいる右腕、右肘を限界まで捻り上げる。左腕も同様にする。これで動けないし、凶器があったとしても取り出せないはず。
「わりぃ! 助かった!」
背後から男の声がする。今動いたら拘束が解けてしまう。声の主を見ずに話す。
「警察。電話は」
とりあえず、背後から襲われる心配はなさそうだ。ただし、警戒は解かない。
「ああ。もうしてある」
「よかった。じゃあ、変わって」
「お、おぅ」
僕は中年男性の背中からどき、男と交代する。
レザージャケットの中にパーカーを着た若い男だった。年は大学生くらいかな。
周囲に人が集まりはじめていた。あまり注目を集めたくないし、警察に事情とか聞かれたくない。
「あとはまかせた」
僕は硝子の方へ駆け出す。
「え? あ、ちょっ」
男は戸惑っていたが、中年男性を取り押さえているので、僕を見送るしか出来ない。
「早くいこう」
ポカンと口を開けている硝子の手を引き、その場を離れる。
師匠には色々技を教わったが、絡まれない。巻き込まれない。素早くその場を離れる。助けを呼ぶ。逃げるが勝ち。厄介ごとには巻き込まれないのが一番の護身術と教わった。
僕も本当はそうしたいのだ。今日もたまたまうまくいっただけだと理解している。危ない橋など、そう何度も渡っていられない。心臓がまだバクバクしている。全身に血液が巡り、汗が噴き出してきた。
「兄さん。手痛い」
「あ……ごめん」
思わず力が入ってしまったようだ。握りしめていた手を離す。
「あれ? バス停通り過ぎちゃったね。戻る?」
左手を硝子に握られる。震える右手は僕に感情を伝えてくれはしない。
「手繋いで。このまま歩いて帰ろう」
普段は歩いて帰らない道。分からない道ではないが、時間が読めない。
「少し遠いよ。大丈夫?」
「大丈夫よ。兄さんと一緒なら」
人通りの少ない道を、二人手を繋いで歩いていく。
硝子の右手には杖、杖を一緒に握るような形で、寄り添いながら星空の下を歩く。
夜の青は静けさを讃えて、星の光は、僕たちを照らしはしない。
見守るような優しい光。春の夜は、寒暖差で寒さを感じやすい。
先の火照りを夜風が冷ましてくれる。繋いだ手だけが熱を保っていた。
僕たち兄妹は最近になって話すようになった。十何年以上実家で一緒に暮らしていたのに、僕たちは会話をしたことがなかった。
いや、正確に言うと、子供の頃に一度だけ記憶に残っている出来事がある。
硝子が、練習つらいと泣いていたことがあった。僕はその頃、師匠の元に通い始めた時期だった。
学校まで車で迎えに来た母親に連れられて、スケートの練習と学習塾の往復生活。夜遅くまで毎日行っていた。家と学校、塾と練習場。自由な時間などなかった。
僕はというと、母親にいないもの扱いされていた。最低限の衣食住だけが担保された生活。身体的な暴力を振るわれてはいない。
当時は分からなかったが、今は聞かされていることがある。母親は硝子の母親だが、僕の母親は違う人物だ。
父親は同じ人物だ。僕と硝子は異母兄妹。
実の母親は自殺をしたらしい。父親は祖父への反抗心で、僕の母親と結婚をして、実家と縁を切るつもりでいたらしい。
だが、その結果。祖父の怒りに触れ、父親は許嫁と結婚させられ、母親と母親の家族はその地域で暮らしていけなくなる嫌がらせを受けたという。
全部、叔父から聞いた話で、確認しようのない話なので、全部が全部真実だとは思わない。僕の周りにはお節介な大人が多い。何も知らない子供にそんな話をしてなにがしたいのだろう。
父親だけは実父。母親は他人の子。そんな子に愛着など生まれるわけがない。
父親は仕事で家に帰ってくることはない。お金だけを、硝子の母親に与えていた。
好きでもない人と結婚させられ、自分で産んだわけでもない子供など、愛せるわけもない。
愛情は娘である硝子に注がれ、母親の夢と期待と想いを一身に受けていた。
母親の願いを背負わされた硝子が、家のすみっこで泣いていたことがある。
僕は一緒に住んでいるはずの妹の顔を見たことがなかった。
泣いている女の子のことが見過ごせなくて、師匠に優しくしてもらったことを精一杯思い出して、硝子に泣き止んでほしくて必死だった。
頭を撫でたり、お菓子とジュースを用意したり、漫画を見せたり、子供ながらに頑張っていた。
硝子はお菓子もジュースも漫画も触れたことがないという。食べ物、飲み物、時間、友達、管理できるものは全て、母親が管理していた。
そんな呼吸すら母親の許可が必要な生活に、泣いていた顔も知らない妹。
僕は、ただその涙と拭いたいと願った。
時間にして三十分も満たない小さな交流。その中で今でも揺るがない確かなものが一つあった。
探しにきた母親に手を掴まれて、連れられて行く硝子の顔が、胸に痛みとして焼き付いている。笑った顔が見てみたい、悲しませたくない、今の僕の行動原理だ。
硝子が膝の怪我をして、選手生命が絶たれた時。硝子に対する興味が母親から一切合切なくなっていた。今の興味は、不倫相手のスケートのコーチだけだった。
父親は手続きが必要な書類と住む場所と資金を提供するだけの人。
最初から見捨てられていた僕と、見捨てられたばかりの硝子の家族生活が始まった。
僕はそんな硝子に聞けずにいたことがある。
「硝子はスケートが続けられなくなってどう思った?」
十年以上続けていたものが、急にできなくなる。そんな人の気持ちを僕は知らない。
硝子は目を大きく見開いて、僕を見つめていた。そんなことを聞かれると思ってなかった。今聞く話ではないのは確かかもしれない。
「ごめん。答えにくいよね」
「ううん。兄さんがそんなこと聞くなんて」
珍しいものを見た。感動していた。
沈黙がしばらく続く。夜空を眺めて、過去の記憶をなぞっているのだろう。
「私は、スケートが出来なくなって、よかったって思ってる」
その表情に、嘘はない。
「町で一番うまい人が集まって、市で一番うまい人が集まって、県で一番うまい人が集まって、全国で一番うまい人が集まって。努力するのが当たり前で、常に競い続けて、常に前に進み続けなくちゃいけなくて、それでも追いつけなくて。才能の差を見せつけられて」
そこで一息。想いを形にしていく。
「競技ができないって、お医者さんに言われたとき、どこかホッとしてたの。自分が努力しても追いつけないことを、諦めることを許してもらえた気がしたの」
嘘はないが、寂寞を滲ませる。
「お母さんも私のことあっさり見捨てたし、コーチと不倫してるし。私、スケートは好きだったけど自分のためにやってなかったんだなぁって、お母さんのためにやってたんだなぁって。そのときになってやっと気づいたの」
硝子は涙を流す。その声は震えていた。
「馬鹿だよね。そんなこと分かってたはずなのに、認めたくなくて、膝が壊れるまで頑張ったのになぁ。お母さんのアクセサリーだって気づいてたのに、こうなるんだろうなって、心のどこかで思ってたのに」
それでも硝子は歩みを止めない。強い子だ。手術をした右膝は、変形し、でかい傷跡が残っている。リハビリをしても、走ることも叶わず、歩くことで精一杯。そんな状態になっても、硝子は一歩ずつ確かに、小さい歩幅で自分のペースで歩き続けていた。
かつては背中まで伸ばしていた髪を切り、肩口くらいにまで短く切り揃えられている。母親に言われて伸ばしていたものだ。手術後、髪が長くて邪魔になって切ったのだ。
「お母さんを諦めたくなんてなかったのに……」
母親に母親役を望むことの何がいけなかったのか。硝子は母親の望むことをしてきたし、いい娘であろうと努力をしてきた。それなのに壊れたオモチャを捨てるみたいに、あっさりと娘を切り捨てた。
硝子は選ばざる負えなかった。選択肢が一つしかなくても、しっかりと自分の意志で選んだ。後ろ髪を引かれながらも、自分の力を信じて前に進むことを選んだ。
母親から捨てられもしたが、自分から母親を捨てる選択もしたのだ。敷かれたレールを走るのではなく、荒れ果てた荒野を歩く。今までとは違う生活に硝子は戸惑っていた。
「ごめん。泣かせてしまって……」
硝子の涙は、地上に閃く星のように、夜の広がるアスファルトで輝いていた。
その星は美しく、僕の感情を捕まえていた。
我ながら不謹慎だと思う。自分で泣かせておいて、その光景に目を奪われている自分がいる。
手を繋いで歩いている男女。女の子が泣きながら歩いている。端から見ると僕は極悪人だろう。何も間違っていないのがつらいところ。
人通りが皆無で助かった。女の子を泣かせているところを、他人に見られたら大変だ。極悪非道の大罪人として、ご近所さんの噂になってしまう。
胸に重みを感じる。硝子の頭が僕の目前にある。他人に泣き顔を見られたくないのだろう。
僕の胸に顔をうずめていた。
「ホントだよ。兄さんが泣かせたんだからね」
道の真ん中で立ち止まっている男女。道の真ん中で抱き合っているように見える男女。バカップルとして、ご近所さんの噂になってしまう。
実態は兄妹喧嘩のようなものだし、家族会議みたいなものだ。家族として機能しているかなこの際考えない。
僕の短い人生で、家族というものが存在していたのか分からないのだ。辞書の意味での、概念としての家族はあるのだろう。紙の上でしか存在しない家族にどんな価値があるのかは、世間知らずの僕には理解できない。
「頭撫でて」
ただ、硝子の気の済むまでこうしていようと思う。恥の多い生涯を送ってきたのだから、恥の上塗りをしたところで今更だ。
———今日の雨は長くなりそうだ。
雲一つない星空を見上げて、僕はただ雨が降り止むのを待ち続けていた。
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