雨夜の星が見える空
@mianya
第0話 迎えに来たのがあなたならよかったのに
本来入力されるはずの視覚情報も、身体感覚も、なにもなく意識だけが存在しているようだった。
光を捉えるはずの眼球も、空気を感じるはずの身体も、自分という存在は光も当たらない何もない黒い空間に溶け込んでいるようだった。
しかし、思考は出来ている。自身を知覚出来ている。
心臓の鼓動、呼吸の音、指先、足先、腕、脚、腹、胸、目、耳、頭、自分を構成する情報が欠如している。
自我をまとめる思考を手放すと、ゆらゆらと暗い海を漂うクラゲのように、身体が粒子のように霧散して、意識と思考が暗い闇の中に落ちていく。
このまま、なにも考えなければきっと僕の願いが叶う。
「
僕を呼ぶ声が何処かから聞こえた。それは脳内に直接語りかけてくるような、魂に響かせてくるような声だった。
何か大きな存在が、声の主が存在しないはずの僕の身体に触れる。
逆かも知れない。声の主が僕に触れたから僕が存在したのか。
僕は左眼から誕生した。僕が形作られていく。
それは空いた眼窩に熱した油を注がれたかのようだった。
あるいは熱した針で一本一本丁寧に神経を刺されているかのよう。
時間経過など解らない。とてつもなく長いようで短い時間。
何者かが触れた左眼が熱を帯びて悲鳴を上げる。
突如として生まれた体内の異物を自己免疫が攻撃しているようだった。
古い神経をただ力任せに引き剝がされている。そんな感覚に陥る。
誕生とは痛みを伴うものだ。
赤ん坊の産声はこの世に産まれ落ちた絶望によるものだ。
僕は今まさにこの世の苦痛を味わっている。
存在の像が結びつかない。果たして僕は存在しているのか?
未だ自身の姿は捉えられない。自分自身を観測しての存在証明、表出など不可能なのだ。
意識だけが、魂と言う所謂不確かなモノが僕に触れてくる存在を解釈している。
解釈しているということは、思考して、比較して、吟味しているということだ。
僕の価値観で、僕のこれまでの思考で答えを出しているということだ。
この空間であっても僕個人の人格が継続されている。
それともそう思わされているのか。少なくとも僕は僕であると言える。幸か不幸かはさて置いて。
そんな僕の意識? 夢? に現れた僕に語りかける声。
舌先三寸まで出掛かっているその名前を形にしようとしても、指の間からすり抜けてしまう。
僕は何処の何者で、誰が僕の存在証明をしてくれるのか。
彼? 彼女? は僕に与えてくれるのだろうか。
現実の世界で機能を逸しつつある左眼が、別の何かを捉え始めるのは皮肉な話だ。
人は脳だけで考えるのではなく、四肢、内臓、情報を脳に入力して、解釈したものを身体に出力するのだ。
つまり今の自分には肉体がない。思考だけが乱反射している。
今の僕は、吹けば消える電気嵐のよう。微弱な電気同士の繋がりでしかない。
思考、思想、思念、記憶、それは人間には必要かも知れないが、それだけでは人間足らしめることは出来ないだろう。
思春期特有の贅沢な悩みだと鼻で笑われてしまえばそれまでなのだが、僕はそれでもと言い続けたい。
ただ、今のところその先の言葉が見つからないのが情けないし悲しいものである。
まあ、それこそ既に精神が壊れてしまっているというオチでもさほど困らないのである。現状壊れているようなものだし。
痛みと熱さに霧散していく自我は、触れてくる存在の手によってこねくり回されている。水と小麦粉、油、塩。パンの生地を作っているかのようだ。
人の肉と血で練り上げたグロテスクな人形。
痛みと不快感。右腕が左足、左腕が右足で組み上げられた不器用な人形。
人の体裁は整っているが、その実は混沌としている。
「どうか心の瞳を開いて、どうか苦しまないで、私を見て、祝福を受け入れて」
それは祝福というよりは願いで、願いというよりは呪いだ。
塞がれた視界に大きな気配が近寄り、左眼に触れる。すると嘘みたいに痛みが引いた。
とはいえ、消えたはずの痛みが残っている感覚があった。
今まで何もなかった真っ暗な意識に、一筋の光が差した。
僕、相生尊が他者に観測されたことにより、存在が確立していく。今まで認識できていなかった自分の身体が突然現れたかのようだった。
自分の姿を確認する。僕の身体は粒子の塊であり、人の形を辛うじて保っているだけに過ぎない。
「あなたにはこれから、ある試練に参加してもらいます」
光が徐々に満たされていき、認識できる空間が拡がっていく。
どこまでも続いていく空色。それを反射して果てしなく続いていく水面。
水面に一つの波紋が起こる。そこには天使がいた。
真白な一対の翼。純白の衣をまとい、星の川のごとき輝きを誇る金色の髪、その顔には微笑みを浮かべて佇んでいた。
見えないはずの左眼が天使の姿を視認する。認識出来ているのだ。光を捉えなくなった左眼が刺激と信号を伝える。
その姿が眼球に写り込み、電気信号に変換され、脳内で像を結んだ
——やっと会えた。
僕には彼女がそう口にしたように聞こえた。
目の前に天使がいる。これは夢であるとすぐに理解出来る。
しかし、僕には自我があるし眼前の彼女は他人という感じがしない。
ほぼ初対面の筈なのに親しみを覚えている。
「私は導くもの。貴方を祝福しに来ました」
一目見て美しいと感じた。誰が見てもそう思う容姿。それと同時に何処か親しみやすさも残している。二律背反。遠いようでいて、懐かしさを覚える。不思議な魅力が彼女にあった。
僕の記憶を辿ってみたところで、誰に似ているわけではないのに、この胸に訪れる郷愁は何であろう。
それはまるで幼いころ見た絵本のようで、冗談みたいな光景だった。
これはいわゆる転生というやつなのだろうか? 知り合いがおすすめしてきた本の内容にそんな話があった気がするのだ。
「転生ではありませんよ。トラックに轢かれたわけでも、過労で心筋梗塞を起こしたわけでも、ビルの屋上から飛び降りたわけでも、不治の病に罹り命を落としたわけでも、天寿を全うしたわけでもありません」
声に出していたかな? 天使から返答がきた。
「あなたこそ私の
唄うように、紡ぐように、僕に語り掛ける。
「狭き門をくぐり、試練を超えれば永遠へと至れるでしょう」
僕の意識は天使に支配されている。その姿、その声から離れられずにいる。
「私の主、私は永遠不滅の至福が欲しい」
痛みと熱さを知った僕は、この世界に誕生、存在しているのだと知覚してしまう。
「世界の永遠の根幹、ゲマトリア、それがあなたの力です」
どんな試練があるのだろう。不安で仕方がない。
「あなたは私の主なのだから大丈夫です」
ふむ。それを聞いたところで不安しかないんだよなぁ。他人から与えられたもので安心できるほど人は出来ていない。
「強制参加です。クリアできたらいいことありますよ」
いいこと? なんだろう。どうせ夢の中の出来事だし、一応聞いてみよう。
「願いが一つ叶います」
宗教の勧誘だろうか。高い壺やら絵画やら分厚い本を買わされたりするのだろうか?
こんな美人に願い事が叶うとか言われたら、うっかり付いて行ってしまう人も多いんだろうなぁ。
これは本当に夢なのだろうか? 夢だとしても彼女の姿を想起させるものに今まで出会ったことがないのだ。だというのに、この強烈な違和感、既視感。
前提から違うのだろう。これは夢であり、僕の臓器が見せる幻であるのならば、この天使は過去に出会った誰かに違いない。
目の前? 頭の中? にいる天使は僕に祝福をもたらしてくれるのだと言う。
誰からも祝福を望まれていなかった僕に、光を与えてくれるのだと言う。
これは僕の無意識が産んだ幻? 救済を夢見ないと本能が防衛しているというのか。
余計なことを考えてしまった。
僕の浅く、薄味な人生経験から天使が生まれてくる発想はないので、これは本当に起こっていることだと信じたい。
望まれないことが、苦痛であることが幸いであることを。今は解らなくてもいずれ解ると。
それでも、だとしても、天使はこれが祝福だと幸いであると言うのだ。
僕には到底受け入れられない思考だ。
この先が幸せである保障などどこにもないし、誰にも出来ない。
痛みに満ちるこの世界で天使は生きろと言うのだ。
僕は今苦しいのだ。何も見えない未来なんかより、今ある苦しみをなんとかしたいのだ。
時間が解決する。いつまでも囚われてはいけない。それは執着であると、なるほどそれは正しい。正しくありすぎて僕には劇薬なのだ。
自分の傷口を見ながら、麻酔なしで自らの傷を縫合するようなものなのだ。
溢れる血液で隠されたパックリ開いた傷口を、誰の手も借りずに自らの手で処置をしなければならないのだ。
だからこそ、他人に傷を見られてはいけないし、触れられてはいけない。迂闊に触れてしまったら、僕はその痛みに耐えられないからだ。
自分自身で傷を治せるわけでもない。他人に傷は触れられたくない。それでもぼくは痛みを、傷ついていることを知って欲しいと願うのだ。
見られたくない、知って欲しい、触れられたくない、触れて欲しい。
相反する気持ちが堂々巡りするのだ。
試練を与えるから、それを乗り越えるだけの力を授けるからと、これまでの人生を、これからの人生を受け入れよというのだ。
さすれば願いが叶うと、望みを叶えると。
痛みを伴う誕生を、苦しみに満ちる生誕を、私が癒すからと、祈りを捧げるからと、そのものが何になると言うのだ。
どうして想いの力だけで、想うだけで能力が、現実を打開する力が付くと信じられるのか。
そんな都合のいい物語などありはしない。
そんなものは夢物語。子供の頃に抱く幻と同じだ。
自分だけに厳しい世界も無ければ、自分にだけ優しい世界も存在しないのだ。
ただそこにあるだけなのだ。
そこに意味なんてない。時の流れに摩耗していく物質に過ぎない。
足掻こうとも抵抗しようとも無駄なのだ。
他人を変えることは不可能。他人に期待しない。自分に期待しない。拘らずに諦める。
母親は神に祈り続けた。
無力な自分では何も成せぬと、想うこと、願うこと、信じることで僕を救おうとしたのだ。
無力な自分を呪い、自分を虐げる者たちを呪い、自分からは何一つ変えようとはしなかった人。
父親は箱庭だけを与えた人だ。
母を死なせた罪悪感に酔い、僕と向き合うことから逃げた人。
僕からも逃げ、
どうすればいいか分からない? 謝罪や懺悔、後悔の戯言に意味はあるのか?
そう言ってあなたはただの一度も僕の目を見ようとしなかった。
自分だけが安全な場所に居て、僕の顔を見ようともしなかった。会おうともしなかった。何かを伝えたいときは、いつだって人を挟んでいた。
施しだけを与えて満足しているだけの他人に過ぎないのだ。
自分の意識の海で泳いでいると、天使が僕の手に触れてくる。
「あなたの翼の陰に私を隠してください」
それは祈りであり願いだ。その言葉には強い想いが込められている。
彼女の声は遠い過去のようで、近しい誰かの声。僕の記憶の奥底に何かを想起させた。
だんだんと視界が薄闇に染まり、僕の身体が、意識の紐が少しずつ解けていくのを感じる。
そして僕は、僕の意識が目覚めようとしていることを悟る。
そうだ。起きる前に一つ聞いておきたいことがあったんだった。
本当に僕って死んでいないの?
「相生尊さん。あなたは死んでいませんよ」
そうか……。それはとても……。
迎えに来たのがあなたならよかったのに。
急に電源が落ちたかのように、全てが真っ暗闇に落ちていく。
きっと目覚める時間なのだろう。ゆらゆら揺らめいて意識が浮上していくのを感じる。
———残念だ。
天使に聞こえただろうか。聞こえたなら叶えてほしいなと。僕は願った。
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