第8話 声を上げるという勇気
笑い声が響く廊下の中で、私だけ音のない箱の中に閉じ込められているみたいだった。
昼休みの学校。購買部前に並ぶ長い列、教室から漏れ出る談笑の声、いつもと変わらない日常の風景。でもその全てが妙に遠く感じられる。明日の文化祭を控えて、心のどこかで緊張の糸がピンと張り詰めているせいだろうか。
廊下の掲示板には色とりどりのポスターが貼られ、「がんばれ!三年A組!」「最高の思い出を作ろう!」といった手書きの応援メッセージが踊っている。普通なら心が躍るはずなのに、今日は全てが重く感じられた。
昨夜、ベッドに横になってからも眠れずに過ごした。天井のシミを数えながら、明日のステージで声が出なくなったらどうしよう、歌詞を忘れてしまったらどうしよう、そんな不安ばかりが頭の中を駆け巡っていた。
「凛、大丈夫? さっきから難しい顔してるけど」
隣を歩く葵の心配そうな声に、私はハッとして首を振った。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「明日のことでしょ? 大丈夫よ、あんた達の歌なら絶対に成功する」
葵の屈託のない笑顔が、少しだけ私の心を軽くしてくれる。でも完全に不安が消えることはない。なぜなら――
「おい、高橋」
廊下の向こうから聞こえてきたその声に、私の足は自然と止まった。振り返ると、田中悠翔が数人の取り巻きと一緒に静雄の前に立ちはだかっている。
静雄は顔を伏せ、肩を小さくしながら立ち尽くしていた。彼の手は小さく震え、ギターケースを抱える腕に力が入りすぎて、関節が白くなっている。その姿を見ただけで、私の胸の奥に熱いものが込み上げてくる。
周囲にいた生徒たちが、何となく足を止めて様子を窺っている。一年生の女子生徒二人が心配そうにひそひそと話し合っている。三年生の男子数人は明らかに面白がって、スマートフォンを向けそうになっている。廊下の空気が重くなっていくのが分かった。
「なんか明日、ステージで歌うんだってな」田中の声には、明らかな嘲笑が混じっていた。「高橋みたいなやつが人前に出るなんて、笑えるよな」
田中の取り巻きの一人がくすくすと笑い始める。もう一人は腕を組んで、まるで見世物でも見るような目で静雄を見下ろしている。通りかかった二年生の女子グループは、気まずそうに足早に通り過ぎていく。
私の視界に、ふっと記憶の欠片が蘇る。
――教室で囁かれる陰口。母が書いた謝罪の手紙を読む父の疲れた顔。そして、「どうせ地味なくせに」と言われた時の、言葉を失った私自身。
でも今は違う。静雄の震える肩を見ていると、胸の奥から何かが突き上げてくる。私は一歩前に出ようとして――でも足が動かない。
いつものように、声が出ない。
「高橋、また固まってるよ」取り巻きの一人が嘲笑を浮かべながら言った。「相変わらず情けないな」もう一人が付け加える。
周囲の生徒たちが、明らかにこの状況を楽しんでいるのが見えた。一部の生徒は心配そうな顔を見せているものの、誰も止めに入ろうとしない。廊下の向こうでは、ちょうど昼食を終えた一年生のクラスがざわざわと移動している。その中の数人が足を止めて、私たちの方を見始めた。
その言葉に、静雄の肩がさらに震えた。彼がちらりと私の方を見る。その目に映った表情を見て、私は愕然とした。静雄は私に助けを求めていない。むしろ、私を巻き込みたくないという想いが見えた。
私は必死に声を出そうとする。でも喉が詰まったような感覚で、息が苦しい。心臓がドクドクと鼓動している。手のひらに汗がにじんでいる。
――またあの時と同じ。みんなに見られて、囁かれて、言葉を奪われる。
足がすくんだ。私は、いつも黙っていた。言い返したかったのに、怖くて、何も言えなかった。拒絶されるのが、笑われるのが、全部。
「や……」
かすれた声が喉から漏れた。でもそれは誰にも聞こえない。
「君は関わらなくていい」
静雄の小さなつぶやきが、私の胸を突き刺した。そんな顔をしないで。そんな風に一人で抱え込まないで。
私は静雄の横顔を見つめながら、昨夜書きかけた詩の一節を思い出していた。
『君の声は、私の夜を明けさせる』
逆だった。私の声で、静雄の夜を明けさせたい。
でも今は、違う。この沈黙が、静雄くんをまた一人にするなら――私は、自分の声を信じてみたかった。
喉の奥が熱い。震えたままでも、声を出したいと思った。声が、喉の奥でずっと泣いていた。今ようやく、息と一緒に外に出ることを許せた。
「やめなさいよ!」
廊下にいた全ての人が、一斉に私の方を振り返る。一年生たちは目を丸くして、三年生の男子グループは「おっ」という感じで興味深そうに身を乗り出す。女子生徒たちの中には、私を応援するような視線を向ける者もいる。でも今度は、その視線が怖くない。
田中がゆっくりと私の方を向く。その瞬間、私は彼の目の奥に一瞬だけ見えた表情に戸惑った。驚き? それとも――困惑?
「あ? なんだお前、高橋の彼女か?」
その言葉に、廊下のあちこちからクスクスという笑い声が聞こえてきた。でも同時に、「お前ら、やりすぎじゃない?」という二年生の男子の小さな声も混じっている。三年生の女子グループが、心配そうに私たちを見つめながら何かをひそひそと話し合っている。
「そうじゃないけど」私は両手を握り締めて続けた。「でも静雄くんを一方的に責めるのは間違ってる」
取り巻きの一人がくすくすと笑い始める。「高橋、女の子に守られてるよ」周囲の生徒たちからも、クスクスという笑い声が漏れる。でも今度は、その笑い声の中に様々な温度があることに気づいた。馬鹿にしている者もいれば、面白がっている者もいる。そして、静かに心配している者もいた。
その言葉に、静雄の肩がピクリと震えた。でも今度は、彼が私の方を見た。その目には、驚きと――感謝のような光が宿っていた。
廊下の向こうで昼食の片付けをしていた一年生の女子が、私たちの方をじっと見ている。その子の隣にいる友達が何かを耳打ちすると、その女子は頷いて、私に小さく頷いてくれた。見知らぬ応援が、私の背中をそっと押してくれる。
「どうして、そこまで……」静雄の声は震えていた。
私は静雄を見つめて答えた。
「静雄くんが一人で抱え込むのを見てるのが辛いから。ずっと一人だったかもしれないけど、今は違う」
「何が面白いの?」
私の声に、自分でも驚くほど強い調子が含まれていた。廊下にいた他の生徒たちが、明らかに私たちの方に注目し始めている。「え、あの子こんなこと言えるんだ」という驚きの声も聞こえる。中には、「頑張れ」と小さく呟く男子生徒もいた。
あの詩を、私は静雄くんに"読ませた"だけ。でも、本当に"届けたかった"のは、声だったんだ。
「人を馬鹿にして笑うことの何が楽しいの? そんなことしか楽しみがないなんて、可哀想だと思う」
田中の顔が見る見るうちに赤くなっていく。取り巻きたちも、予想外の反撃に戸惑っている様子だった。
「なんだと? 調子に乗るなよ、地味女」
その時だった。田中のジーンズのポケットから、小さく音楽が聞こえてきたのは。スマートフォンの音楽アプリが勝手に起動してしまったらしい。
聞き覚えのあるメロディー。それは、私がLunaとして投稿した楽曲の一つだった。『見えない涙』という、中学時代の辛い経験を歌詞にした曲。
周囲の生徒たちが、「あ、この曲知ってる」「Lunaじゃん」とざわめき始める。田中は慌ててスマートフォンを取り出し、音楽を止めようとする。でもその瞬間、私は彼の画面をちらりと見てしまった。
そこには、Lunaの楽曲がお気に入りリストに何十曲も保存されていた。
時間が止まったような沈黙が流れた。田中の顔から血の気が引いている。私の心臓は激しく鼓動していた。周囲の生徒たちも、この予想外の展開に息を呑んでいる。一年生の女子が「え、まじで?」と友達に耳打ちしている。三年生の男子が「田中って意外だな」と小声で呟いているのも聞こえてきた。
「違ぇよ、これはただの偶然……誰があんなやつの曲……!」
田中は最初、全力で否定しようとした。でも取り巻きたちが彼のスマホを覗き込んで、「田中、マジでLunaの曲入ってるじゃん」「しかもお気に入り登録しまくりだし」と騒ぎ始める。
そんな彼らの様子を見ていた二年生の女子グループから、「えー、田中って案外普通の高校生なんだ」という声が聞こえてきた。別の生徒からは「なんか親近感わくかも」という呟きも。廊下の空気が、少しずつ変わり始めているのを感じた。
「やめなよ、田中」
葵が私の隣に歩み寄ってきた。普段の明るいトーンとは違う、どこか冷たさを含んだ声だった。
「みんな見てるよ? こんなところで騒いで、恥ずかしくない?」
確かに、廊下には既に二十人近い生徒が集まっていた。一年生から三年生まで、みんな興味深そうに私たちの方を見ている。先生が来る前に解決しないとまずい、という空気も流れていた。
田中は周囲を見回すと、急に肩の力が抜けたように見えた。そして、低い声で呟いた。
「……俺、わかんねぇんだよ」
その声音に、今まで聞いたことのない脆さが混じっていた。廊下の生徒たちが、その変化に気づいて静まり返る。まるで、田中の本当の顔を初めて見るような表情で、みんなが彼を見つめていた。
「なんであんな歌、胸に刺さるのか。なんで泣けるのか……くそっ!」
田中の声が震えた。周囲の生徒たちも、この突然の感情の露出に戸惑っている。取り巻きの一人が「田中、どうしたんだよ」と困惑している。もう一人は黙って田中の肩に手を置いた。
「俺の家じゃ、弱いやつは置いていかれるんだよ。父親に弱音なんて言ったら、ぶん殴られる」
その言葉の底に潜む、深い諦めのような響きに私は戸惑った。一瞬だけ、田中の目に十六歳の少年らしい脆さが見えた。近くにいた一年生の男子が、その告白に顔を青くしている。同じような家庭環境なのだろうか。
「でも」田中の声が震えた。「あの歌だけは、俺を殴らない」
私の息が止まった。
「『見えない涙』……毎晩聞いてた。泣けない理由も、声を出せない理由も、全部分かってもらえてるみたいで」
廊下に集まっていた生徒たちも、その告白に息を呑んでいる。誰もスマートフォンを向けていない。みんな、ただ聞き入っている。一部の女子生徒は目に涙を浮かべていた。三年生の女子の一人が小さく鼻をすすっている音が聞こえる。
「でも、まさかお前らが作ってたなんて思わなかった」田中の声はかすれていた。
静雄が顔を上げた。その目は驚きで見開かれている。
「僕たちの曲を?」
「馬鹿だろ、俺」田中は自嘲するように笑った。「自分を救ってくれた歌を作った奴を、こんなことして」
田中は少し間を置いて、続けた。取り巻きの一人が田中の肩を叩いて「大丈夫か?」と心配そうに声をかけている。もう一人は無言でうなずいて、田中を支えるように立っていた。
「でも分からなかったんだ。中学の時、高橋がなぜ俺を避けるようになったのか。俺、高橋をいじめたつもりなんてなかった」
静雄の表情が変わった。困惑と、そして何かを思い出すような表情。
「田中…」
「中学の合唱祭で……僕、ソロを任されたんだ」
静雄が震え声で話し始めた。廊下の生徒たちが、より静かに耳を傾ける。一年生の女子が友達の手を握って、心配そうに静雄を見つめている。
「でも……最初の音が裏返って。それだけで、みんなが笑って、拍手すら止まった。田中、あの時君も笑ってたよね」
田中の顔が青ざめた。周囲の生徒たちからも小さなため息が漏れる。「あー、それ辛いな」と三年生の男子が小声で呟いている。
「それ以来……声を出すのが怖くなった。でも、凛の詩を見たとき、思ったんだ。こんな自分でも、歌っていいのかな、って」
その瞬間、田中の目に明らかな後悔の色が浮かんだ。彼は拳を握り締めて、しばらく俯いていた。取り巻きの一人が「田中……」と心配そうに声をかける。
「俺……覚えてる」田中の声は掠れていた。「あの時、確かに笑った。みんなが笑ってたから、俺も……でも今思えば、お前がどれだけ恥ずかしかったか」
田中の告白に、廊下の空気がさらに重くなった。でも今度は、重苦しさではなく、何かが浄化されていくような重さだった。
遠くから中村先生の姿が見えてきた。周囲の生徒たちが自然と散らばり始める。でも完全にその場を離れる者は少なく、多くがまだ私たちの様子を気にかけているのが分かった。
「先生、ちょっと話があります」
田中が代表して切り出した。中村先生は私たちの表情を見て、すぐに状況を察したようだった。
「音楽室で話しましょう。人も少ないし」
四人で音楽室に向かう道すがら、通りすがる生徒たちが私たちに小さく会釈したり、「頑張って」と声をかけてくれたりした。さっきまでの重い空気とは打って変わって、何となく温かい雰囲気に包まれている。
静雄が私に小さく声をかけた。
「凛、ありがとう。君の声が聞こえた気がした。ずっと一人だと思ってたのに」
私の胸が温かくなった。そして、田中が私たちより少し遅れて歩きながら、独り言のように呟いているのが聞こえた。
「俺も、ずっと一人だったのかもしれない」
音楽室の扉を開けると、放課後の静寂に包まれた空間が広がっていた。中村先生は慣れた手つきで窓を少し開けて、室内の空気を入れ替えた。
「で、何があったの?」
中村先生が椅子に腰かけながら尋ねた。田中が重い口を開いた。
「俺、勘違いしてました。高橋のことも、自分のことも」
田中は自分がLunaの楽曲のファンだったこと、静雄との中学時代の誤解について話した。話している間、田中の手はずっと震えていた。時折言葉に詰まり、静雄が心配そうに彼を見つめることもあった。
室内に流れる沈黙は、重くはなかった。むしろ、何かが解けていくような、温かい静寂だった。
「それは...とても大切な気づきね」
中村先生は立ち上がると、窓際に歩いて行った。
「音楽って不思議なものよね。言葉だけでは伝えられないものを、人と人を繋ぐことができる」
先生は振り返ると、私たちの顔を順番に見つめた。
「実は私、昔バンドやってたのよ」
その意外な告白に、私たちは驚いて顔を見合わせた。
「大学時代の話だけどね。ベースを弾いてた」中村先生は少し照れくさそうに微笑んだ。「でも一番覚えてるのは、バンドメンバーとの誤解で解散しかけた時のこと。結局、音楽を通じて和解したの」
中村先生は私たちを見回した。
「明日の文化祭、みんなで何かやってみない?」
「え?」私たちは同時に声を上げた。
「田中くんもギター弾けるでしょう?」
田中が頷いた。その顔には、今までに見たことのない穏やかな表情があった。
「一応、独学ですけど」
「じゃあ、今から少し練習してみましょう」
静雄がギターケースから愛用の楽器を取り出す。午後の日差しの中で、ギターの木目が美しく光っていた。田中も借りたエレキギターを手に取る。その手は、さっきまでの震えが嘘のように安定していた。
楽器の音合わせが始まる。最初はバラバラだった音が、少しずつ重なり始める。田中のギターが静雄の音を支え、静雄のギターが田中のフレーズを受け止める。二人とも、音楽に集中している時は全く違う表情をしていた。
そしてある瞬間、田中のギターから美しいメロディーが流れてきた。それは即興の演奏だったが、静雄の顔が驚きで輝いた。
「田中、それ……すごいメロディーだ」
「ああ、昨夜思いついたんだ。Lunaの詩を読んでて」
田中は少し照れくさそうに答えた。そして、私を見た。
「正直、お前の詩はすげぇと思ってた。でも素直に言えなくて……馬鹿みたいに強がってた」
私は息を呑んだ。
「私の詩が、田中にも……」
「特に『見えない涙』。あれは俺の状況そのものだった」
私は深呼吸をして、歌い始めた。
「見えない涙が 頬を伝って
誰にも言えない 痛みを抱いて」
田中が小さく歌詞を口ずさんでいる。涙を流しながら。静雄も、いつもより大きな声で歌っている。もう声が震えていない。
音楽室の外から、廊下を通る生徒たちの足音が聞こえてくる。でも誰も中を覗こうとしない。まるで、私たちのこの時間を邪魔してはいけないと理解しているみたいだった。
私は歌いながら思った。昨夜、書きかけの詩に込めた想い。
「この詩、ラストの一行を昨夜書いたの」
私は静雄を見つめて言った。
「『君の声は、私の夜を明けさせる』って」
静雄の目が大きく見開かれた。
「なら、僕がその夜を明かしてみせる。歌で」
彼の声には、今まで聞いたことのない力強さがあった。そして田中も、少し照れくさそうに言った。
「俺も、手伝えるかな。ギターで」
音楽室の隅に置かれたピアノから、葵が軽やかな伴奏を奏で始めた。彼女は音楽の授業でピアノが上手だったことを思い出した。
「葵も一緒に」
私が手を伸ばすと、葵は嬉しそうに微笑んだ。
「もちろん。私たち、チームでしょ?」
四人の音が重なった瞬間、音楽室に魔法がかかったようだった。私の歌声、静雄のハーモニー、田中の情熱的なギター、そして葵の優しいピアノ。それぞれが異なる過去を持ちながら、今この瞬間に一つの音楽を作り上げている。
歌が終わると、音楽室に静寂が戻った。でも今度は、満足感に満ちた静寂だった。中村先生が小さく拍手をしている。
「明日が楽しみね」
中村先生がにっこりと笑った。そして、ふと何かを思い出したように言った。
「そうそう、静雄くんのお母さんに連絡してもいいかしら。あなたの歌、きっと聞いてもらいたいと思うの」
静雄の顔が一瞬曇った。
「母さんは......多分、興味ないと思います。僕が何をやっても」
「そんなことないわよ」中村先生は優しく微笑んだ。「親は、子どもが思っている以上に、子どものことを気にかけているものよ」
田中が突然口を開いた。
「俺の親父も、たまに俺の机の上に置いてあった音楽雑誌をこっそり読んでたみたい。本棚に戻す時に、ページの端が折れてるのに気づいたんだ」
その小さな気づきを分かち合うように、田中は微笑んだ。
「もしかしたら、親って思ってるより子どものこと見てるのかもしれない」
私は仲間たちを見回した。静雄、葵、田中、中村先生。みんなが私の大切な人になっていた。そして、それぞれが誰かを大切に思っている。
葵が窓の外を見ながら言った。
「あ、あの一年生の子たち、まだ廊下で心配そうにこっち見てる」
確かに、音楽室の窓から廊下を見ると、さっき私たちの様子を見ていた一年生の女子二人が、まだ心配そうにこちらを振り返っていた。
「きっと、みんな明日のステージを楽しみにしてくれてる」
私はそう言いながら、手を振って彼女たちに笑いかけた。二人は嬉しそうに手を振り返してくれた。
「もう逃げない」
私が小さくつぶやくと、静雄も頷いた。
「僕も。もう一人で抱え込まない」
田中も小さく頷いている。
「俺も......もう素直になってみる」
窓の向こうでは、夕日が校舎を橙色に染めている。明日はいよいよ文化祭。私たちの初めてのステージ。
でも今は、もう怖くない。一人じゃないから。
私の歌声が、本当の意味で誰かを救えるかもしれない。そして私自身も、音楽によって救われていた。田中も、静雄も、みんなそれぞれの傷を抱えながら、音楽で繋がっていた。
中村先生が机の上に置いてあった楽譜を手に取った。
「これ、明日のプログラムなんだけど、急遽変更してもいいかもしれないわね」
先生の提案に、私たちは顔を見合わせた。
「変更って?」葵が首をかしげた。
「元々は静雄くんと凛さんのデュエットの予定だったけど、せっかくなら四人で演奏してみない?」
その提案に、私の心臓が高鳴った。でも今度は恐怖ではなく、期待で。
「でも、練習時間が……」田中が心配そうに言った。
「大丈夫」静雄が力強く答えた。「今日の放課後と明日の朝、みんなで合わせれば」
葵が手を叩いた。
「面白そう! 私、司会もやるから、紹介も特別にしてあげる」
私たちは改めて楽器を手に取った。今度は、四人での新しいアレンジを考えながら。田中の提案したメロディーに、静雄がハーモニーを重ね、葵がリズムを支える。私は、新しい歌詞を即興で考えていた。
「孤独な夜に 響く歌声
誰かの涙を そっと拭うように
僕らの声が 空に届くまで
歌い続けよう この街で」
歌い終えた時、音楽室の外から小さな拍手が聞こえてきた。扉の窓から覗くと、さっきの一年生の女子たちが感動した顔で立っていた。私たちに気づかれたことに慌てて、ぺこりと頭を下げて去っていく。
「みんな、応援してくれてるのね」中村先生が微笑んだ。
田中が立ち上がって、音楽室の前方にあるホワイトボードに歩いて行った。
「俺、一つ提案があるんだ」
彼はマーカーを手に取って、『見えない涙から希望の歌へ』と書いた。
「明日のステージ、この題名でやってみないか? 俺たちの物語を、歌で伝える」
その提案に、私たちは息を呑んだ。
「素晴らしいアイデアね」中村先生が拍手した。「物語性のある構成なら、観客にも伝わりやすい」
私は胸が熱くなるのを感じた。明日のステージは、ただの歌の発表ではない。私たち四人が歩んできた道のりを、音楽で表現する場になる。
静雄が私の手を軽く握った。
「凛、明日は君と一緒に歌えることが嬉しい。もう恐れない」
田中も照れくさそうに言った。
「俺も、やっと本当の自分を見せられそうだ」
葵が私たちを見回して、満面の笑みを浮かべた。
「私たち、きっと最高のチームになる」
明日が、私たちの物語の新しい始まりになる。そして、静雄の母親が客席にいたとき、きっと今までとは違う何かが生まれるはずだ。音楽室に響く私たちの歌声は、もう誰にも止められない。
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