第20話:手、手、手
年が明けてからの数日、街はまだ正月休みの雰囲気だった。
駅前の店も半分ほど閉まっていて、道行く人もまばらだ。
だらだらとした毎日で、昨日と今日の区別もつかないまま、ただ時間が過ぎていった。
午前中に親戚たちとの挨拶も終わり、高尾山口駅へと向かった。
駅に着くと、初詣に訪れる参拝客でごった返していた。
登山ブーツやトレッキングポールを持って参拝に向かう人たちとは対照的に、普段着で来てしまったことに不安を覚える。
人混みの中から、見慣れた姿がこちらへ向かってくる。
その歩みは少し急いでいるようで、でも嬉しそうにも見えた。
白いダウンジャケットに、落ち着いた色のパンツとスニーカー。
いつものレースやスカートと違って、今日の彼女は新鮮な印象だった。
「……おはよう、待たせた?」
白いマフラーに半分顔を隠して、みのりが照れたように笑う。
「いや、こっちも今来たとこ」
遥は苦笑いした。
「なんか……その服、すごく似合ってる。いつもと違う感じで、いいね」
みのりは少し視線をそらし、マフラーから出ている頬が赤くなった。
「山だし、ちゃんと暖かくしてこいって、お母さんに言われちゃって」
「正解だよ。こっちは薄着で来ちゃったかも……寒い」
「ほら、私は完全防備だから!」
そんな得意げな様子に、遥は思わず笑った。
こういうおちゃめなところは、変わらないなと思う。
駅前から参道へ歩き出すと、ケーブルカーの乗り場にはすでに長い列ができていた。
「どうする?」と遥が尋ねると、みのりは少し考えて、「せっかくだし、リフト乗ってみない?」と提案した。
「リフト……いいね、乗ったことないや」
券売機で買ったチケットを握りしめ、係員の案内に従って列に並ぶ。
順番が近づくと、「手、離さないでね」とみのりが小声で言った。
遥は「もちろん」と答えて、その冷たい手をしっかりと握った。
手袋越しでも、だんだん温かくなってくる。
山頂に向かってリフトが上がっていき、足元に高尾の森が広がった。
途中で係員が「はい、写真撮りますよー」と声をかけてきた。
みのりは急に遥の肩に寄りかかって、カメラに向けてピースサインを作る。
頬がくっつきそうな距離に、遥は緊張した。
「わ、思ったより高いね……」みのりが不安そうに言った。
「でも、見晴らしはすごいよ。空気も澄んでるし、冬らしい」
「ほんとだ。……なんか、冒険してるみたい」
寒さで息が白くなる。
リフトを降りても、手はつないだままだった。
「初詣、ちゃんとお願い事考えてきた?」
「やっば……なんも考えてない……」
「そっか。じゃあ、一緒に考えながら歩こうよ!」
昼の山道を歩いていく。
途中長い階段と長い坂が現れ、二人は楽な坂道を選んだ。
息を切らしながら坂道を上ると、立派な山門が見えてくる。
仁王像が両脇に立ち、参拝者を見守っている。
境内に入ると、線香の甘い香りと、お経を唱える声が聞こえてきた。
石段を上り、本殿の前で立ち止まる。
ポケットから取り出した小銭を、みのりと並んで賽銭箱に投げ入れた。
願わくは、今年一年。
この手の温もりが、穏やかな日々の中にあり続けますように。
心の中で住所と名前を唱え、そう願う。
目を開けると、隣でみのりはまだ手を合わせていた。
みのりがゆっくりと目を開けた。
その瞳がまっすぐ遥を見つめる。
「なに?」
彼女が小首をかしげると、遥は言葉に詰まった。
「……何をお願いしたの?」
みのりは微笑んで「ひみつ」と言った。
「ずるいなあ」
「教えない」
二人だけの時間が心地良かった。
「じゃあ、おみくじ引こうか」
みのりの提案にうなずき、巫女のもとへ向かった。
木の筒を振って、番号の棒を取り出した。
「……23番、お願いします」
巫女から受け取った小さな紙を、石垣のそばで開く。
「……あ」
遥とみのりは同時に声を漏らす。
そこに記されていたのは、大きな『凶』の一文字。
「うわ、やっちゃったね……」
みのりは肩を落としかけたが、すぐに「今年、大丈夫かな……」と苦笑した。
「でもさ、これって、逆にここから運が上がっていくってことじゃない?」
「そういうものなの?」
「多分、きっと……」
根拠のない言葉に、二人は顔を見合わせて笑う。
おみくじを白木の結び台に結びに行くと、無数の白い紙の中に、同じように『凶』と書かれた結び目を見つけて、少しだけ安心した。
「みんな、仲間だね」
「ちょっと安心した」
木立を風が吹き抜けていく。
同じ『凶』を引いて笑い合ったことで、二人の距離が縮まった気がした。
参道を下るころには、だいぶ日が傾いていた。
参拝客も少なくなり、前を歩く人との距離も空いてきた。
道の両脇に土産物屋が並んでいる。
二人は歩幅を合わせてゆっくりと歩く。
焼き団子の香ばしい匂いがして、「おいしそうだね」「帰りに何か買っていこうか」と話した。
駅前広場に出ると、人通りが多くなった。
そのまま改札へ向かうと、みのりが立ち止まった。
「今日は、ありがとう」
その仕草は、いつもよりわずかに落ち着いて見えた。
「こっちこそ」
遥は、言葉を探すように返す。
別れたくない。
まだ、何か言い足りない。
何か言いたかったが、結局言葉が出なかった。
それなのに、みのりはもう一度「またね」と微笑み、改札を抜けていった。
帰りの電車で、窓に映る自分の顔をぼんやり見つめた。
今日の景色、彼女の声、つないだ手の温もり。
すべてがまだ心に残っていた。
本当は毎日会いたい、ずっと彼女の側にいたい。
いつの間にか、彼女といるときだけ呼吸ができる身体になってしまっていた。
駅を出たあと、家に帰らず川沿いを歩いた。
何も考えずに歩けると思ったが、みのりのことが忘れられなかった。
今日はどうしても寂しくなり、電話をかけてしまった。
通話料金で親に怒られるかもしれないと頭をよぎったが、これ以外に寂しさを紛らわす術を知らなかった。
何コールかしたあと、繋がった。
「電話なんてめずらしいね、どうしたの?」
「なんか……寂しくて」
「さっきまで遊んでたのにもう寂しいんだ?」
「うん……」
「ねぇ、ハルくん。大丈夫だよ、いつかその寂しい気持ちが懐かしくなるときがくるから」
「……本当?」
「電話越しだからゆびきりはできないけど、約束する。だから、今はその寂しい気持ちも楽しもうよ」
「わかった……ごめんね、急に電話なんかかけちゃって」
「いいよ、別に。また何かあったら連絡してね」
「ありがとう……またね」
彼女の言葉を繰り返しながら、家に帰った。
いつもの就寝時間が近づいた頃、みのりから一通のメールが届いた。
『来年も初詣一緒にいこうね!』
部屋の明かりを消す。
今日はぐっすり眠れそうだった。
校門の木々の葉が一枚ずつ剥がれゆくさまを横目に、校舎へ向かった。
コートやマフラー姿の生徒たちが大きな手提げ袋を持ちながら教室へ歩いていった。
「おはよう!」
「あけおめー!」
久しぶりの友人同士が手を振り合っていた。
教室に入ったら、机の上には土産物らしい菓子の箱や年賀状の束が置かれていた。
「冬休み、何してた?」という決まり文句のやりとり、ストーブの前に集まる手、手、手。
篠原は自分の席に座っていた。
遥が視線を向けると、彼女はこちらを見て軽くうなずいた。
その仕草に気づいたのは、おそらく自分だけだろう。
誰にも気づかれない、彼女とのやりとり。
それだけで気分がよくなった。
ホームルームのチャイムが鳴り、先生が優しい声で新年の挨拶をした。
「冬休み、事故や怪我はなかったかしら? みんな、今年もよろしくね」
前の列から「スノボ行きましたー」「親戚んち!」と声が上がった。
先生はうなずきながら、「いいわね」と笑い、教室を見渡した。
ストーブの前にいた生徒も、窓際でおしゃべりしていた数人も、自分の席に戻っていった。
「それでは……今からこれを配ります」
そう言って、担任がプリントの束を前列に渡した。
教室のあちこちで、進路アンケートと今年の目標を書くプリントが配られていった。
その文字が目に飛び込んできた。
遥もペンを取り、アンケートの欄で手を止めた。
これまでなんとなくでやり過ごしてきた問いが、今年はいよいよ目の前にあった。
大学に行っても学びたいことが思い浮かばない。
だからといって高校生が就職できる場所なんて何があるんだろうか。
ずっと親に大事にされてきて、もうすぐ自分で選ばなければならないときが迫っていた。
こんなとき、彼女はどうするんだろうか。
プリントを提出したあとも、何も書けなかった自分が情けなかった。
放課後の教室で、友人たちが楽しそうに話していた。
でも今の自分には、その話し声も遠く感じられた。
遥はひとり、鞄を肩にかけ、校舎を出た。
バス停を通り過ぎ、街灯の灯る道を歩いた。
進路のことを決められなかった後悔が、まだ胸に残っていた。
自宅のドアを開けると、リビングから夕食の香りが漂ってきた。
「おかえり」と声がかかった。
遥は軽く返事をし、鞄を置くとパソコンの前に向かった。
ディスプレイに『Lunaphelle Online』のログイン画面が浮かび上がった。
現実ではあれほど動かなかった指が、ここでは迷いなくキーボードを打った。
画面には夜の森が広がっていた。
いつもの狩場に、見慣れた筋肉質なアバターが立っていた。
「お願いします」
パーティ申請を送ると、二人のキャラクターが並んで歩き出した。
普段なら他愛ない話で埋まる時間なのに、今日は言葉が出てこなかった。
パーティチャットの点滅するカーソルを見つめながら、遥は切り出した。
「……ねえ、ゾンデビさん。今日、学校で進路のアンケートが配られたんだ」
ゾンデビの動きがわずかに止まった。
「ふうん。どうすんの? 大学進学とか?」
狩りを続けながら、軽い調子で答えた。
「学力は悪くないほうなんだけど……正直、特にやりたいこともなくて。これまでいいと言われる道を選んできただけで、自分で決めたことってほとんどないんだ」
「そうか……」
少し間があいて、新しいチャットが届いた。
「ハル、これはあくまでひとつの選択肢だけど、市役所の高卒採用って知ってるか?」
「……市役所?」
思いがけない言葉に、遥は手を止めた。
「地元で働くって道もある。大学に行くのがすべてじゃない。今やりたいことが見えなくても、一歩踏み出せば違う景色が見えることもあるぞ」
「……そっか。ありがとう、考えてみる」
ゲームのBGMを聞きながら、チャットの向こうにいる人の存在を感じた。
点滅するカーソルを見つめた。
何も書かれていない空白が、今は希望のように思えた。
眠る前も、遥は自分の選択について考えていた。
翌朝の食卓は、ヨーグルトとグラノーラの香りがした。
遥は背筋を伸ばし、スプーンでグラノーラを混ぜながら視線を上げた。
「……ねえ、進路のことで相談があるんだけど」
両親が遥の方を向いた。
「大学に行くんじゃなくて、市役所を受けてみようかなって。高卒の採用枠で、地元で働けたらと思ってるんだ」
少し沈黙があって、父は考え込むような顔をした。
「……堅実だな。お前らしい、悪くない選択だと思うよ」
母は箸を置き、穏やかに笑った。
「大学がすべてじゃないし、理由があるならそれもいいと思う。ただ、大卒の人と比べると転職が難しくなるかもしれないから、その覚悟は持っておいたほうがいいかな」
「それは、わかってる」
「でも、何も考えずに大学へ行くより、目標があるほうがいい。もしうまくいかなくても、そのときは浪人して大学を目指せばいい。選択肢はいくらでもあるし、俺はお前が自分で決めた道を応援する」
「……ありがとう」
自然に言葉が出た。
両親の言葉で、混乱していた気持ちが整理された。
食事を終えると、いつもの朝の準備を済ませ、玄関を開けた。
教室のざわめきが昨日と違って聞こえた。
みんな進路の話をしていた。
自分もついにその仲間入りをしたのだと思った。
廊下でも、進路の話があちこちから聞こえてきた。
遥は自分の席に座り、ノートの端に意味のない図形を描いた。
隣の友人が、興味半分といった顔で聞いてきた。
「そういえば、遥はどこ受けんの?」
周囲の視線が自分に向いた気がした。
遥はためらいなく答えた。
「市役所の高卒枠、受けてみようと思ってる」
短い沈黙のあと、やがて友人が「マジか」と笑った。
「お前らしいな、それ。地元就職って、なんか似合うわ」
「え、すごい堅実じゃん!やべーよ、俺なんかなんも決まってねーよ」
驚きや応援の声が上がった。
廊下を歩いていた篠原が足を止めた。
教室の中から聞こえた遥の声に気づいたのか、窓越しに視線が合った。
そのまま入ってきて、机のそばに立つと、静かに微笑んだ。
「そっか……遥くんは、地元に残るんだね」
「そっか」という短い肯定の中に、遥の知らない物語の気配がした。
祝福と、ほんの少しの諦めが混ざっているような、そんな声だった。
「たぶん、そうすると思う」
彼女は少し迷うような顔をして、口を開きかけて、言いかけた一言を途中で飲み込んだ。
「篠原さんは、どうするの?」
窓際の日差しを背に、彼女は短く肩をすくめた。
「……うまく言えないけど」
慌てて言い直すように、制服の袖を触りながら続けた。
「どこか遠くに行きたい気もするし、でも、地元も嫌いじゃないし……」
その曖昧な答えは、彼女が言葉を慎重に選んでいる証拠のようだった。
遥は、その先に続く言葉を待つべきではないと思った。
やがて「お互い、頑張ろうね」と言い、席へと戻っていった。
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