第18話:回帰不能点

 前の人混みを抜けると、きらびやかなイルミネーションが徐々に薄れ、代わりにピンクや青のネオンが目立つ通りへと変わっていった。

 道端には化粧の濃い女性たちが立ち、通りかかる男性に声をかけているのが見えた。


 互いに言葉はなく、歩幅をそろえるたび、みのりの指先が落ち着きなく動いていた。

 歩く影が足元で重なり、離れ、また重なった。


 入りやすそうなホテルの自動ドアを抜けると、外の喧騒が嘘のように静まった。

 フロントには誰もおらず、小さな待合室がいくつか並んでいた。


「……どうやって部屋を取るんだろ」


 みのりが小声で呟いた。

 遥も勝手のわからない機械の前に立ち、ガラス面に指で触れた。

 表示された部屋名は、どれも知らない異国の菓子の名前だった。


「あんまり高いのは、ちょっと……」


「これでいいんじゃないかな……」


 二人で顔を近づけ、画面の下に並んだ控えめな価格を選ぶ。

 受け取り口からカタンと音を立ててカードキーが落ちた。

 手のひらに収まるその一枚のプラスチックカードが、ずしりと重い金属のように感じられた。


 ロビーの静けさを背に、エレベーターホールへ向かう。

 鏡に並んだ二人の姿は、他人のようで、それでも確かに今ここにいる自分たちだった。

 肩が触れるたび、服越しに相手の体温が伝わってきた。


 誰からともなく「行こうか」と言い、エレベーターに乗り込んだ。

 狭いエレベーターのなかで、隣のみのりの存在が、肌で感じるほど近い。

 シャンプーの香りがふっと鼻先をかすめた。


 この夜、自分たちは友達ではなくなるのかもしれない。

 もしその境界を越えてしまったら、明日からどんな顔で会えばいいんだろう。

 そもそも経験のない自分にそんなことができるんだろうか。


 手のひらににじむ汗を、気づかれないようにズボンで拭った。


 目的階で扉が開き、長い廊下に二人の足音が響く。

 番号札の前で喉が一度鳴り、カードキーをかざした。

 短い電子音とともにロックが外れた。


 ドアを押し開けた瞬間、生ぬるい空気が足首に流れた。


 入り口から見渡すと、中はパステルグリーンの壁に包まれ、間接照明が小さなリビングを照らしていた。

 奥にベッド、その先にガラス張りのバスルーム。


 みのりが息を呑み、ぽつりとこぼした。


「……なんか、思ったよりプライバシーないね」


 扉のそばに立ち、言葉を見つけられないまま視線が室内を泳いだ。

 部屋は洗剤と柔軟剤の香りに満ちていた。

 彼女が室内の方を指さし、軽く顎をかしげて遥を見る。


「先にシャワー、浴びてくるね」


 指先がゆっくりと下がり、唇に触れる。

 視線は窓の方へ逸れ、短い沈黙が流れた。



「……それとも、一緒に入る?」



「う、ううん、いい……大丈夫」


 反射的に首を振ると、みのりは微笑んだ。


「ふふ、そっか」


 別れ際、みのりの指先が遥の手に触れた。

 一瞬の温もりを残して、彼女は静かに歩いて行く。

 白い素足が絨毯を踏み、ガラス扉の向こうへ姿を消した。


 残された遥は、ソファの端に腰を下ろした。

 視線の置き場を見失い、手の甲に自分の指先を当ててみたが、落ち着かなかった。


 背後で布の擦れる音がわずかに聞こえ、シャワーが壁を打つ水音が部屋全体に響いた。


 バスルームを見たい衝動を、奥歯で噛みしめて殺した。

 代わりに、昼間買ったチョコレートの箱を手に取り、裏面の成分表示を何度も確認した。

 文字は目に入っても意味が頭に入らず、時間だけがゆっくりと過ぎていった。


 やがて水音が次第に小さくなり、完全に途切れた。

 バスルームの扉が開き、温かな湯気がふわりと流れ出す。


 白い照明に照らされた湯気の中から、銀色のウィッグをつけたみのりが現れた。

 バスローブからのぞく濡れた肌が、ランプの光をきらきらと反射していた。

 首筋を伝う一筋の水滴が、鎖骨のくぼみで小さく光り、やがて肌に馴染んで消えていった。


「……あのさ、変なこと聞くかもだけど」


 喉が少しだけ渇き、声がいつもより大きかった。


「その、ウィッグ……もしかして、病気とか……?」


「ううん、内緒。でも、病気じゃないよ。安心して」


 瞳を指さし、「これは、ただのコンプレックス。本当の顔は、ちょっと恥ずかしいから」


「……そっか。ごめん、変なこと聞いて」


「気にしないで」


 湯気がまだ部屋に残っていて、照明がぼんやりと霞んで見えた。

 二人の視線が一瞬合い、すぐに逸らした。

 その瞬間の緊張感だけが、妙に長く感じられた。


 彼女に促されて、遥もバスルームへ向かった。

 足元のタイルの冷たさが、温かなシャワーの水に変わった。

 シャワーを浴びていても、意識はずっとみのりの姿に引き寄せられていた。

 指先を流れる水が、彼女の首筋をなぞった水滴と重なって見えた。


 髪をタオルで乾かしながら部屋に戻ると、みのりはソファに座り、片膝を立ててテレビを眺めていた。

 画面では格闘技の試合が流れていて、男たちが声を張り上げ、歓声が聞こえてきた。

 遥はどこに座ろうか迷い、同じソファの端に座った。


「……ほんと、そういうのが好きなんだね」


 画面から目を離し、みのりの視線がゆっくりと遥へ移る。


「ハルくんも、筋トレする?」


「したほうがいい?」


 みのりはふたたびテレビへ視線を戻し、やがてまた遥のほうを見て、笑った。


「うーん、そのままでいい。ハルくんの、そういう繊細な感じが好きだから」


 言い終えると、自分の言葉に照れるように、頬がほんのり朱に染まった。


「でも……マッチョなハルくんも、ちょっと見てみたい、かも」


「それはまた、今度ってことで」


 二人の笑い声が、テレビの音に混じった。

 しばらくは画面を眺めていたが、みのりがテーブルに置いた紙袋へと手を伸ばした。


「……そういえば、これまだ開けてなかったね」


 包みを持ち上げると、カカオの甘い香りがした。

 箱の蓋を外すと、銀紙に包まれたチョコレートが二つ並んでいる。


「どっちも食べたいな」


 みのりは一つを手に取り、指先で銀紙を剥がす。

 銀紙を剥がすと香りが濃くなった。

 白い歯で、ことりと小さなチョコレートを割る。

 そして、その半分を、ためらいなく遥の口元へ差し出した。


「はい、あーん」


 吐息がかかる距離。

 甘い香りがして、ビターな味の奥で柑橘のジュレがとろける。


 間接キスの事実に気づいたのは、数秒後だった。

 イルミネーション、間接キス、短い時間で経験したことのない出来事が次々と起きていた。

 自分の中の理性が少しずつなくなっていくのを感じていた。


「……ふふ、甘くて、苦いね」


「……うん」


 他愛のない話が途切れる頃、時計は十時を指していた。

 洗面台に並んで、備え付けの歯ブラシで歯を磨く。

 鏡に映った二人の顔は、どこかぎこちなかった。


 遥は携帯を開き、「ごめん、泊まっていく」とだけ母親にメールを送った。

 返信が来たかどうかは、確かめなかった。


 みのりが先にベッドに入り、布団をそっとめくる。

 遥も覚悟を決め、その隣にゆっくりと横になった。


 サイドテーブルのスイッチに指を伸ばし、部屋の明かりを消した。

 暗闇に、二つの呼吸が重なった。

 廊下から、時折かすかな足音が響いては消える。

 それ以外は何も聞こえない。

 布団の下で、触れ合った腕から互いの体温が伝わってきた。


 天井を仰ぎ、時間が止まってしまえばいい、と本気で思った。


 どれくらいの時間が経ったのか。

 五分も経っていないのかもしれない。

 それでも、暗闇に目が慣れてくると、カーテンの隙間から差し込む街の明かりが、天井にレースの模様を描いていたのが見えた。


 布団の中で、遥は何度も指を握りしめた。

 心臓が高鳴り、呼吸が浅くなった。


 沈黙を破ったのは、みのりだった。



「……する?」



 ささやきは、ほとんど吐息に近かった。

 視線が揺れ、唇がわずかに開いては閉じた。


 頭の中でいろいろな言葉が浮かんでは消えていく。

 断ったら、みのりを傷つけてしまうだろうか。

 でも、もしここで受け入れたら、本当に自分は彼女を大切にできるのか。

 経験のない自分が、彼女の期待に応えられるのか。


 この先は引き返せない。

 それはわかっていた。


 でも今、みのりが自分を求めてくれていた。

 この気持ちに応えたい。


 ゆっくりと、それでも確かな意志で、遥は言葉を絞り出した。



「……うん」



 その一言で、部屋の静寂の意味が、まったく違うものに変わった。


 暗闇の中で、互いの存在だけを頼りに身を寄せた。

 指先が相手の腕に触れると、みのりの息が少し荒くなる。

 衣服の上から伝わる温もりに導かれるように手を動かすと、彼女の手が遥の手を強く握り返してきた。

 二人の呼吸が重なり、心臓の音が耳元で響く。

 張り詰めていた緊張が、少しずつほどけていく。

 髪が頬に触れ、唇が近づく。

 全てが無言の会話だった。

 境界が曖昧になり、どこまでが自分でどこからが彼女なのかわからなくなった。


 やがて熱が落ち着き、暗闇に短い吐息が漏れた。


「ねぇ、ハルくん」


 みのりが、ぽつりと言った。


「いま、幸せ?」


 すぐには言葉が出なかった。

 ただ、あふれそうな感情が声を奪っていた。


「……うん……すごく」


 こんなに誰かと近くにいられる日が来るなんて思わなかった。

 あのとき、自分の行動ひとつで孤立を味わった日。

 もう二度とこんな温もりは感じられないと諦めていたのに。


 涙が、頬を伝った。

 暗闇に隠して、みのりには見えないと思った。


「泣いてるの?」


「……ごめん……こんなにも近くにいてくれる人がいなかったから……それがみのりで、本当に嬉しくて……」


「……変なの。……私とずっと一緒にいてくれるなら……この幸せはずっと消えないよ。私も、君のものだから」


 暗くて、表情は見えなかった。

 だから、その言葉の奥にある本当の意味も、すぐにはつかめなかった。

 それでも、手に伝わる温もりだけを信じて、遥は答えた。


「ずっと、一緒にいる。……好きだよ」


「……嬉しい。私も、君のこと……本当に大好き」


 言葉とともに、みのりの温もりが遥を包み込んだ。


「だから……ずっと一緒にいようね」


 みのりは遥の手を握り、細い指の爪が肌に消えない印を刻んだ。

 その痛みとは違う鋭い感覚に、遥は息を呑んだ。


 二人はただ、暗闇の中で互いの心臓の音だけを聴きながら、やがて訪れる朝を待った。

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