今日のことを、わたしは覚えていたい。

瞬遥

1.「ただいまと、おかえりのケーキ」


夕暮れ時、帰宅ラッシュの駅前スーパーは人でごった返していた。

手に持った買い物かごには、いちご、卵、生クリーム、そしてスポンジケーキ用の薄力粉。

ふだんは惣菜コーナーにまっすぐ向かう私も、今日は足取りが少しだけ違っていた。


娘の結菜の8歳の誕生日だ。


「今年はね、ママのケーキがいい!」


そう宣言されたのは一週間前。

市販のチョコケーキが定番だったわが家に、まさかのリクエストだった。


「え? 作ったことないよ、お母さん……」

「だいじょうぶ!いっしょにつくればいいじゃん!」


その一言で、私の“言い訳リスト”はすべて封じられた。


家に帰ると、夫の聡が先に帰宅していた。

珍しく定時で上がってくれたらしい。


「なにか手伝おうか?」


「うん、ミキサーある?」


「実家にあったけど……こっちにはないかも」


結局、泡立て器で生クリームを攪拌することに。

途中で私の腕が悲鳴を上げると、聡が交代してくれた。

隣では結菜がいちごのヘタを一心不乱に取っている。


「これ、まるごとにする?半分に切る?」


「どうしようか? 結菜が好きな方でいいよ」


「んー……まるごとがいい!見た目がかわいいもん」


子どもの感性は時々、プロのセンスより的確だなと感心する。


ようやく完成したのは、夜の8時半。

スポンジは少し傾き、生クリームはところどころボソッとしている。

でもいちごはぎっしりと乗っていて、ロウソクの火が灯った瞬間、結菜は「うわーっ!」と目を輝かせた。


「おめでとう!」と声をそろえ、みんなで歌った『ハッピーバースデー』。

その歌を聞きながら、私はふと小さいころの自分を思い出していた。



私が8歳のころ、母はとても忙しかった。

夜遅くまで仕事をして、帰ってきても疲れた顔でごはんを作ってくれていた。


誕生日は毎年、コンビニのケーキとスーパーのピザ。

でも私はそれが大好きだった。


ロウソクに火をつけるたび、「これがうちの味なんだ」と、子ども心に思っていた。


だから今日、母親として娘に「手作りがいい」と言われたとき、少しだけ怖かったのだ。

――本当に喜んでくれるかな?

――理想の母親像に足りてないって思われるんじゃないかな?


でも、いま目の前でケーキを見つめる娘の瞳は、そんな不安をすべて吹き飛ばしてくれる。


「ねえママ、来年もこのケーキがいい。もっと大きくつくろう!」


「いいよ。でも、今度は泡立て手伝ってね?」


「うん!」


結菜が嬉しそうに笑い、夫が「腕が筋肉痛だよ……」と苦笑しながらフォークを口に運ぶ。


ケーキは少し甘すぎたけれど、なんだか、人生の味がした。


食後、結菜はリビングの隅に置いてあったプレゼントを開け、歓声をあげた。

中身は、彼女がずっと欲しがっていたカラフルな文房具セット。


「えー!これ、学校でみんな持ってるやつ!」


それを聞いた瞬間、私は少し胸が締めつけられた。

「みんな持ってる」という言葉に、どこか安心したような、でも寂しそうな響きがあったから。


だけどすぐに、彼女はケーキの写真を見返しながらこう言った。


「でも、うちだけは、ケーキも作ったんだよ! みんなに言っちゃお!」


私は思わず笑った。

そうだ、これでいいんだ。

“ふつう”じゃなくてもいい、“完璧”じゃなくてもいい。

家族の中で笑い合って、「この家が好き」と思えるなら、それはもう充分に幸せなんだ。



時計が10時を回り、娘が眠りについた後、私はリビングの片付けを終えて、ソファに深く腰を下ろした。

聡が隣に座り、ビールを開けた音が静かに響く。


「来年は……どうする?」


「何が?」


「ケーキ。もっとちゃんとしたやつ、予約する?」


「ううん。たぶんまた作るよ、きっと」


「じゃあ、ハンドミキサー買っとこう」


私たちは顔を見合わせて笑った。

疲れたけれど、心地よい夜。

今日一日が、こんなにも特別だったのは、豪華なことをしたからではなく、家族みんなで時間を分け合ったからだ。


何気ない日を、特別にするのは、「何をしたか」ではなく、「誰といたか」だと思う。


だから、来年も再来年も――

私たちの“特別な日”は、きっとこんなふうに続いていく。


ちょっと甘くて、ちょっといびつなケーキと、たくさんの「おかえり」と「おめでとう」に包まれて。

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