冷たい記憶より、約束のほうが。
たをやめ
冷たい記憶より、約束のほうが。
「『約束』って聞こえだけはいいよね」
――なによ、いきなりそんなこと言って。
吹奏楽部の合奏だけが遠くから響いてくる夏休み中の中央階段に座っていた時、君はそんなことを言い出した。午前中に終わった補習にあわせて、慈悲もなく運転停止された冷房の、微かな死戦期呼吸を浴びながら、二人で座り込んでいる。
「いや、元カノに嘘つきって言われて。別に嘘ついたつもりなんてないし、そもそも約束なんてしてないんだけどなあ」
長くため息を漏らしてから、口を開く。
確認なんだけど、好きって言った?
「もちろん言ったよ。曲がりなりにも彼女だったんだし」
ずっといっしょ、って言われなかった?
「言われたけど、なんで知ってんの」
一応聞いとくわ。付き合ってる間何人の女の子と連絡取ってたの?
「えーと、三……いや四かな」
そのうち家に入れたのは何人?
「一回でも入れたことあるやつ数えるんだったら、みんな」
はあ、とさっきよりも大きなため息をつく。三段ほど上に座っていた彼の純粋そうな、透き通ったアーモンドの瞳を見つめて、間髪入れずに返した。
だから、嘘つきって言われるのよ。
「なんでだよ、俺一回も嘘ついたことないって。いっつも、向こうからフってくるの!」
おかしいおかしい、って足を踏み鳴らしてだだをこねる姿は、きっと私にしか見せたことがないんだろうなと思えるくらいに、いつもの飄々とした彼の顔とは違っている。ご自慢の整った顔に似合わず、感情を露わにして騒いだそのはずみに、水筒に脚が当たった。転がり落ちた。
がちゃん。がたん。
ぱちゃり。
「やべ、蓋するの忘れてたみたい。濡らしてごめん。タオル取ってくる!」
体操服だし別にそのままでいいよ、と言う隙も与えずに彼は駆け出した。水筒を立てて、私のパステルカラーの水筒と背比べをさせる。私の方が小さいのに、中身は彼の方が少ない。零れ落ちてしまったのだ。
麦茶はひんやりと、私の太ももを撫でる。それはまさに、あの夜の彼の、冷え切った手のようだった。
手が冷たい人は心があったかいんだよって笑った、布団の中の記憶。ずくん、と胸の奥から熱が生まれた。あばら骨の底面をなぞって、私も知らない私の中に、体温を分け与えてくれた懐かしさが、体操服にこもる熱と共に込み上げる。
「悪い、ちょっと汗臭いかもしれないけど、許してくれ」
息を切らした彼が、階段の下から現れる。呼吸と一緒になって見えてしまった心拍数に、思わず唾を飲み込んだ。私より一段低いところに、跪くようにして座り込んで、太ももから伝い落ちた雫は丁寧に拭き取られる。彼の上履きは、ぱちゃんと水溜まりを踏みしめて、けれど彼自身は、それに気づいていないようだった。あの冷たさは踵まで響いて、拭ったってすぐには消えない。
もとから少し湿ったタオルの、いつもの匂いに安堵する。ぎゅっと掴んだシーツよりも、美化された記憶が詰め込まれている匂いがした。
私は、約束すらしてないのに――。
消せないはじめての記憶より、薄っぺらい「約束」の方が、ずっと、羨ましい。
冷たい記憶より、約束のほうが。 たをやめ @tawoyame_
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