人生に失敗した俺が淹れる珈琲が、異世界では伝説級だったらしい ~カフェを開いたら、王女殿下がお忍びで通うようになりました~

平山桂翠

#1 泥の味と、追憶の香り

ちり、と首筋に走る殺気。


俺は咄嗟に身を固くするが、それは屈強な傭兵たちが放つものではなかった。

酒場の隅で、埃っぽい木椅子に深く腰掛けた俺を射抜いていたのは、カウンターの奥に立つ、熊のような店主の不機嫌な視線だ。


「……おい、若いの。さっきから何をぶつぶつ言ってる。注文しねえなら出てけ」


低く、威嚇するような声。

慌てて背筋を伸ばし、壁に雑に張り出された羊皮紙のメニューに視線を走らせる。


エール酒、黒パン、干し肉のスープ……。

見慣れない文字が並ぶ中、俺の目はある一点に釘付けになった。


『コフィー』


……コーヒー、じゃない。コフィー、だ。

それでも、この異世界に来て初めて目にする、あの飲み物を彷彿とさせる文字列だった。


「……すまない。その、コフィーを一つ」


「ちっ、酔狂な奴め」


店主は舌打ち一つで応じ、カウンターの奥で何か黒い粉を煮立て始める。


異世界に転移してきて、今日で三日。

右も左もわからず、なけなしの金で宿と食事をなんとかしているだけの、惨めな毎日。

そんな日々に、ほんの少しだけ、光が差したような気がした。


もし、万が一。

この世界にも、あの香り高い癒やしが存在するのなら……。


やがて、木のカップが「ドンッ」と乱暴にテーブルに置かれた。

立ち上るのは、香ばしいアロマではない。

焦げ付いたような、そしてどこか土臭い、不快な匂い。


カップの中には、黒く濁った液体がなみなみと注がれていた。

油のようなものが表面に浮き、お世辞にも美味そうだとは思えない。


(……まあ、だよな)


期待した俺が馬鹿だった。

それでも、俺はカップに口をつけた。

ほんの少しでも、あの頃の温もりを思い出せるかもしれない、と淡い希望を抱いて。


そして、後悔した。


「――っ!?」


口の中に広がったのは、味と呼べる代物ではなかった。

熱した泥水。

あるいは、煮詰めすぎて炭になった薬草のカス。

強烈な苦みと不快な酸味、そして舌にまとわりつく粉っぽさが、思考を真っ白に塗りつぶす。


その瞬間、忘れていたはずの記憶が、鮮烈に蘇った。



『ソウジ君。君の淹れる珈琲は……不味いね』


雨が降る日の午後だった。

客足の途絶えた、古びた喫茶店。

俺の代で潰すことになった、親父の形見の店。


最後の客は、昔からの常連だった老紳士だ。

彼はいつもと同じブレンドを注文し、そして、いつもとは違う、悲しそうな顔でそう言った。


「君は技術ばかりで、客の顔を見ていない。独りよがりなんだよ、君の珈琲は」


返す言葉もなかった。

その通りだったからだ。

経営が傾き始めてから、俺は焦っていた。もっと技術を、もっと知識をと、ただそればかりを追い求めていた。


店を畳んだ日も、雨が降っていた。

珈琲の香りも、客の笑い声も消えた空っぽの店内で、俺は独り、あの日の泥水のような珈琲を啜っていた。



「……う、……ぇ……」


酒場の喧騒が、遠くに聞こえる。

俺はテーブルに突っ伏し、こみ上げてくる吐き気を必死にこらえていた。

最悪だ。なけなしの金を払って、前世のトラウマを呼び覚ますとは。


俺は自嘲しながら、意識の中でステータス画面を開く。

異世界に来たときに、神を名乗る存在から与えられた、俺だけの力。


===============

名前:ソウジ

職業:なし

スキル:【珈琲職人】

    -鑑定 LV.1

    -抽出 LV.1

    -焙煎 LV.1

    -etc...

===============


神は言った。

「あなたの魂に最も適したユニークスキルを授けよう」と。

その結果が、これだ。


剣も魔法も存在しない、平凡な日本で生きてきた俺にとって、珈琲は全てだった。

だが、剣と魔法が全てのこの世界で、このスキルに一体なんの価値があるというのか。


モンスターを珈琲で撃退できるか?

魔法の代わりに、カフェラテを詠唱できるか?


できるはずもない。

このスキルは、俺の人生が失敗だったと、そう突きつけてくるだけの呪いだった。


「……もう、二度と淹れるものか」


呟き、顔を上げる。

その時、ふと視界の端に映ったものがあった。


カウンターの隅。

店主が、客に出した後の「コフィーの豆の出涸らし」を、無造作にゴミ箱へと捨てていた。

大粒で、形が不揃いな、黒い塊。


(……豆、か)


一度は捨てたはずの探究心が、鎌首をもたげる。


あの不味さは、豆そのものが悪いのか?

それとも、淹れ方が絶望的に間違っているだけなのか?


いや、よせ。考えるな。

また失敗するだけだ。また、誰かをがっかりさせるだけだ。


頭ではそう思うのに、視線はゴミ箱に捨てられた豆の出涸らしから離せない。

俺は震える手で、残りの銅貨をテーブルに置いた。


店を出て、これからどうやって生きていくか。

考えるべきことは、山ほどある。


――それでも。

確かめずには、いられなかった。


俺が、どうしようもないほどに、"珈琲"を愛してしまった男だからだ。

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