1.異世界居候生活
サウロスに抱えられたまま俺が連れて行かれたのは、人通りこそまばらだがそこそこに発展した小さな街、といった感じの場所だった。
「キョクヤ、モアドマァド、エノソエ」
相変わらず、俺の名前以外は何を言っているか分からない。
子供ながらに理解する。
まずはこの謎の言葉を覚えなくてはいけないんだと。
現状、唯一頼れそうなこのサウロスという男と意思の疎通が出来ないことにはまともに生きていくことすらできない。
それはすなわち、俺が弟の元へ帰る事が出来なくなるということだ。
到底受け入れがたい。
ぎゅっと拳を固めて、大人しく運ばれていく。
サウロスはこの街では何らかの形で有名なのかもしれない、というのは観察していて気付いた。
道で行き会う人……金髪や銀髪が多いが、耳は長くない……が、サウロスに軽く会釈をしている。
サウロスはそれに対して、いちいち少し片手を挙げて笑みを浮かべていた。
余裕のある佇まいと、相手に礼を尽くされるのに慣れている態度。
これは裕福なのか、身分が高いのか、或いはその両方だろうという事は察せた。
――勿論、子供である俺が考えたのは「この人はきっとお金持ちの偉い人なんだろう」だったが。
果たして、それはサウロスが足を止めた場所で確信に変わった。
「アド、ハエドメ」
そう言って、サウロスは大きな屋敷の敷地にスタスタと入って行く。
前庭には屋敷に向かって真っ直ぐに石畳が敷かれている。
そこを進むサウロスのブーツの踵がコツコツと軽い音を立てていた。
屋敷の正面玄関、その大きなドアを片手で開けるとそのまま中に足を進める。
なるほど、日本とは違って家に入る時に靴は脱がないらしい。
――しかし、大きな屋敷なのに使用人の姿が無いのは不思議だった。
子供の目線でいえば「こんな広い家で一人で暮らしているのかな?」だ。
サウロスは屋敷に入って左手側へと足を向け、廊下を一度曲がって奥まった場所へと行く。ドアを開けると、そこは広いリビングのような部屋だった。
設置してあるソファやテーブルも高価そうなのが一目で分かる。
サウロスはソファに俺を下ろすと、ニコリと笑った。
「クァエ、アリポパ」
「……」
なんだか分からないが、害意がないことは分かった。
黙っている俺の頭を少し撫でて、サウロスはリビングの壁際へ行く。
視線でそれを追っていると、目的地にあるのはどうやら何らかの容器の様だった。
――一緒に置いてあるのは、カップ、だろうか?
だとすると、飲み物を用意してくる、とか言ったのかもしれない。
確かに喉は渇いている。
これまではある種の緊張状態に置かれていたために気付かなかっただけだろう。
水でもいいから何か飲みたいというのが正直なところだ。
ところが。
俺は、このサウロスという男について一発で学ぶことになった。
俺の視界で、サウロスが容器……水差しの様なものだろう……を持ち上げ、カップに注ごうとして中身を勢いよくぶちまけた。
「……は?」
意味が分からない。
なぜ、液体が入っている容器をその速度で傾ける?
バシャー、と一気に容器の中身は全てカップ、及びその周辺に広がった。
「……、アー……イテフェ……」
ぼんやりと呟いたサウロスはわずかな時間で気を取り直したのか、びしゃびしゃなカップを持ってやって来た。――液体が床に滴っている。
「アクェ、シィ?」
「いや……先に拭いた方が……」
思わず言ってしまったが、サウロスは少し首を傾げて、俺の前にそのびしゃびしゃなカップを置いた。
……取り敢えず、透明だ。水なのかもしれない。
恐る恐るカップを持ち上げる。
手が濡れる。
顔の傍まで持って来て、匂いがないことを確認する。
そこまでしても、やはり半信半疑でそっと一口だけ口に含んだ。
変な味はしない。というか、水だ。幾分ぬるいけど、けっこう美味しい水だ。
それが理解できてからはカップの水を一気に飲み干した。
俺の反応に、サウロスのホッとした様な吐息が聞こえた。
やはり、この男は悪人ではないのだろう。
ただ――問題はある。
俺は空になったカップを置くと、ソファから立ち上がって水浸しになっている壁際へと向かう。
「クァ?」
「……」
サウロスが何か言っているが、そんなことより……。
俺は水溜りを避けて辺りを見回す。
……あった。
何か布……恐らくは布巾のようなものがある。
幸いにしてこれには水はかかっていなかった。
俺はそれを手に取るとまずは台の上を拭き、床を拭く前にサウロスの方を見た。
「床を拭く道具は?」
「?」
不思議そうにしていたサウロスは、俺の直前の行動から辺りの片付けをしようとしていることを察したんだろう。
「ヴィレプ? イクスパゥ」
そう言い残して、部屋から出て行った。
すぐに戻ってきたサウロスの手には、モップのようなもの。
「エスオベ?」
「うん」
差し出されたモップを受け取る。そのまま俺は辺りの水溜りを掃除し始めた。
流石に大人用のサイズなので長くて扱いにくいが、これは仕方ないだろう。
何とか水浸しだった辺りが片付くと、モップをサウロスに返す。と言っても、無言で差し出したのだが。
サウロスはそれでも頷いて受け取り、モップを片付けに行った。
戻ってきたサウロスは俺を促してからソファに座る。俺もそれに倣った。
「プロエククアリコムノポ」
「うん、何言ってるか分からない」
「イタヴェテド」
にこっと笑ったサウロスはテーブルの上に手をかざしてふわっと一振りした。
次の瞬間、びしょ濡れのカップしかなかったテーブルの上に、紙とインク壺と羽根が出てきた。
――は?
きょとんとしてそれを眺めていた俺は、テーブルとサウロスの顔を二往復してようやく理解した。
「魔法!?」
「ヌプリホヴィ?」
何を言っているか分からないが、とにかくそれはどうやら魔法のように俺には見えた。
サウロスは羽根……恐らく羽ペンだろう……を手に取って、インク壺に浸すと紙に何か書き始めた。
しばし見ていると、ヘタクソなイラストの様なものでサウロスと俺が描かれている。
……じっとそれを見ていると、サウロスは少しずつ何かを書き足していく。
この世界の文字、だろうか? それがサウロスの横に書かれ、続けて俺の横に同じ文字が書かれる。
あぁ、なるほど。
サウロスは「この世界の言葉を俺に教える」と言いたいのか。
だとしたら……一方的なのは性に合わない。
弟以外に借りを作るなんて真っ平だ。
俺はサウロスに手を差し出した。
「それ、貸して」
「?」
「それ、ペン」
頭を傾けるサウロスの手を差すと、サウロスにも伝わったのだろう。インクを足した後で渡してくれた。
俺は紙の向きを変えて、その羽ペンでカリカリと描き始めた。
俺の横に描くのは先ほどのモップ、そしてパンやカップのイラスト。それをサウロスの横に矢印で導く。
難しい顔で俺の行動を眺めていたサウロスは、ようやく伝わったのか、パッと顔を輝かせた。
「イタエテリンド、キョクヤ、トゥクドファ?」
俺の名前が入っている……つまり、俺の言いたいことは伝わったようだ。
「言葉を教えてくれる代わりに、俺が家事をやる。カップに水注ぐだけであんなことになるやつに任せておけない」
俺の言葉はサウロスに伝わってはいない。
だが、サウロスは少しだけ苦笑した。
「インレドノスペ。ヌセヌハ、イタイアンメアハ。グラティエシホミファポ、キョクヤ」
長い長い。何を言っているか分からないのに、これでは聞き取ることも出来ない。
それでも羽ペンを返した俺に、サウロスは紙に何事か書き足した。
サウロスの顔と俺の顔の間に……これは、なんだろう? ひしゃげたハートマークのような……不思議な記号だ。
だが、それは好意的なものなんだろうというのは分かった。
だから顔を上げて俺を眺め、少しだけ首を傾げたサウロスに俺は頷いて見せた。
「それじゃあ、俺はこの家の……居候っていうのになるんだな」
サウロスが右手を差し出す。
自然と、その手を取って握手をしていた。
――働いたこともないような、柔らかくて細い指だった。
あぁ、やっぱりそうなんだ。
俺はため息を吐きたくなるのを堪えた。
屋根のある家に置いてもらえる。
言葉も教えてもらえそうだ。
しかも本人の装身具や家具などを見るに、裕福なのだろう。
だが、それを凌駕してぶち壊しにしかねない欠点が、サウロスにはあった。
生活能力が、皆無なのだ。
成人男性がカップに水すら注げないなど、聞いたこともない。
子供だって出来ることだ。
この調子ではまともな食事が出てくることなど到底期待できない。
だったら一宿一飯の恩義だ。
俺がサウロスの生活の面倒を見てやり、その見返りとしてこの世界の言葉を教わればいい。
案の定、夕食として大きなパンをドンとテーブルに置いたサウロスにため息を吐く羽目になった俺の、異世界居候生活はこうして始まった。
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