老師の背中
於とも
第1話 逞しくて優しい母の背中
村が焼かれていた。
母さんは
「弟は置いていけ。2人だと逃げ切れない。1人でお行き。」
そう言って、僕だけを家の中の暖炉の煙突に押し込んだ。
弟には
「お前は母さんが居ないと泣くからね。一緒においで。」
そう言って、背中に負い紐を着けて小さな弟を負ぶった。
棒のカン貫で施錠していた玄関の扉が、枠ごと、乱暴に蹴り破られた。
母さんが、僕を逃がす為に、鎌を持って、夜盗に立ち向かって行った。
僕は真っ黒く煤けた煙突の煉瓦の隙間に指を滑り込ませて、足を踏ん張って、必死に登った。
母さんの金切り声が聞こえる。弟の泣き声も。
必死で登る。
煙突の縁まで登り切って、辺りを見回した。
炎に包まれた家々。道のあちこちで、娘達が押さえ込まれ、暴力を受けている。凄まじい怒号と悲鳴。
手足が震える。恐ろしい。怖い。
これからどこへ向かえばいいのか分からない。
もう母さんの声は聞こえてこなかった。
家の裏手に続く薮の茂みの暗がりを目指す事に決めて、ゆっくり煙突から屋根に這い出した。
裏に積んであった薪の上を伝って、地面に降りた。
周囲の気配に耳を澄ます。表側だけに人の気配があった。
一気に、薮を目指して走った。
薮を掻き分ける音に肝を冷やしたが、こちらに気付かれてはいないようだった。体を低くして、四つん這いになって走った。
森に入った辺りの薮が切れる所まで来て、そのまま薮の中に留まった。
息が弾んでいる。顔や手足のあちこちを、薮の笹の葉で擦ったらしく、ヒリヒリと痛んだ。
耳の奥がどくどくいっている。手足はまだ震えている。息をする音が誰かに聞かれているような気がして、漏れないように、気を付けた。
その時。
森の木々の間から、獣の臭いが漂って来た。
恐る恐る薮の隙間から覗くと、赤く光る目が、幾つもの幾つも、こちらに向かってじりじりと近付いて来ているのが見えた。
『狼だ。』
冷汗が、噴き出した。
周囲を見回す。
狼に近付く形になるが、登り易そうな高い木は、それしか無かった。迷っているヒマは無い。
狼に向かって走った。一瞬、赤い目が動きを止めた。
その木まで辿り着いた。狼達が唸りながら走りはじめる。
必死で木を登った。夢中で上へ上へと、登った。
走り込んで来た狼の1頭が、勢いのまま、跳躍して木を登って来た。
「ひいいっ……」
悲鳴が口から出た。咄嗟に、足を上に上げた。
尻の部分の服を咥えられて、引っ張られた。
ガクンと下に引っ張られたが、両手両足で幹と枝に掴まって耐えた。
狼が服を咥えてぶら下がって揺れる。
必死に耐えた。
尻の布が破れて、狼は下に落ちて行った。
「ひいいっ。ひいいっ……」
声にならない悲鳴をあげながら、必死で登った。
これ以上は登れない所まで登って、やっと下を見る事が出来た。
この木を囲むように、幾つもの赤い目が上を向いて煌めいていた。それは、無数に。森の奥まで続いている、赤い目達。
耳の奥で、またどくどくいっている。冷汗が、顎を伝って、落ちた。
その冷汗が、狼達の所まで届いたのだろうか。
口に白っぽい布っを咥えた狼が、低く唸った。
風が、木を揺らす。
そう遠くない場所にある村の家々が、まだ炎を上げて燃えていた。
煙の臭いは届かなかった。風向きは向こう側に吹いているから。
赤く煌めく狼の目は、ある時から、村に向かって進み始めた。
その静かだが着実な歩みは、村を囲むように広がり、夜陰に消えて行った。
「母さん。母さん。」
僕は、母の最期の背中を思い出して、泣いた。
働き者で、よく笑う母さん。
あんまり泣いたからか、吐きそうになった。
吐いたらいけないので、泣くまいと思ったけど、涙は後から後から出て来て、やっぱりしゃくりあげる事になった。
父さんは、もう随分前に戦に駆り出されて、帰って来ていない。
父さんの分まで、母さんは畑を耕して働いた。来る日も来る日も。
生活の為に、他所の畑の手伝いまでして、僕と弟を食べさせてくれた。
逞しくて、優しい母さん。
「僕は、これからどうしたらいいの……。」
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