甘狐喫茶(現実の時)

ゆにくろえ

第1話 ちいさなお客さま/手紙のような甘味

霧のかかった夕暮れ。

学校帰りのその子は、どこか寂しそうな顔で、小さなランドセルを背負って歩いていた。

お母さんは仕事で遅い。家に帰ってもテレビだけがしゃべっている。

そんな時、不思議な路地に気づいた。見たことのない道。なのに、なぜか懐かしい。


ふらりと入ると、そこにぽつんと小さな木の扉。

「――こんなとこ、あったっけ?」


扉を開けると、ふわりとお茶の香り。畳の音、障子から差し込むやわらかい光。

店内はとても静かで、でも、こわくはなかった。


「いらっしゃいませ」


カウンターの向こうには、狐のお面をつけた店主。

名前は聞かなくても、なんとなく「甘狐(あまこ)」さんなんだと思った。


「……ぼく、500円しかないよ」


甘狐は何も言わず、すっと立ち上がって、奥の台所へ。

しばらくして、小さなお皿を運んできた。


上には、小さなきつねのおはぎが一つ。

もちもちとした黒米の中に、ほんのり甘い餡。きなこの香りがふわっと広がる。


「……これ、いくら?」


甘狐は首を横に振った。

「あなたの“心の500円”で、ちょうどです」と、やさしい声が心の中に響いた気がした。


おはぎをひとくち食べると、涙がぽろり。


思い出した。

おばあちゃんといっしょに作ったおはぎの味。

「さびしいときは、甘いもの食べなさい」って、笑ってくれた顔。


気づけば、お店の外はもう明るくなっていて、霧は晴れていた。

甘狐の姿はなく、店内も、もとの路地も、もう見つからなかった。


でも、ランドセルの中には、ひとつだけ残っていた。

小さな、きつねの形をした砂糖菓子――


* * *

戦後まもない頃。

町にはまだ瓦礫の跡が残り、家族を失った人も多かった。

そんな時代の、ある晴れた日の午後。


少女・綾(あや)は、焼け跡の公園にぽつんと座っていた。

十七歳。ひとりぼっち。

両親は遠くの親戚に預けられ、自分の将来も見えない。


何かを信じることが、ただ苦しくて、泣けてくる日だった。


歩き疲れて、ふらりと裏道へ迷い込む。

草に埋もれた小道の先。朽ちかけた鳥居のそばに、見覚えのない木の扉。


「……こんなところに、お店?」


開けると、和紙の照明がやさしく光る静かな空間。

茶の香りと、畳の音。

そして、狐のお面の店主――甘狐が、ゆるやかに頭を下げた。


「お金……そんなにないけど……」


甘狐は何も言わず、静かに手を動かした。

出されたのは、花びらのような桜もち。

淡いピンク色の道明寺が、まるで春の手紙のように皿の上に並んでいた。


綾は一口かじる。

とたんに、胸が詰まる。


父と母と、最後に過ごした春の日の記憶。

お花見に持っていった、あの桜もちと、そっくりな味。

小さな笑い声。つないだ手。忘れていた温度。


気がつくと、頬に涙が伝っていた。


「……ありがとう、ございます」


甘狐は黙ってうなずき、そっと小さな包みを手渡す。

中には、紙で包まれた干菓子の詰め合わせ。

ひとつひとつに、違う形の「言葉」が添えられていた。


「“自分を信じていい”って、書いてあるみたい……」


外に出ると、いつもの公園だった。

でも風が、少しだけやさしく吹いていた。


綾はその後、遠い町に嫁ぎ、家族を作った。

孫ができた頃には、和菓子が得意になっていて――


ある日、孫に小さなおはぎを教えながら、こう言った。


「さびしいときは、甘いものを食べなさい。

 きっと、大切なことを思い出せるわよ」


彼女はもう、「甘狐喫茶」のことを覚えていないかもしれない。

でもその“甘さ”は、ちゃんと受け継がれていた。


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