それを神聖とするのは無理がある

幽彁

てんし

私ね、私ね、神様を見たの。


「馬鹿げてる」


本当よ、ほんとに見たの。屋上にいつもいらっしゃるわ。いつか、一緒に行きましょう。


「それはどうやったって言い訳にならない。でも、あなたには確かに羽があった。あなたは確かに天使だったよ。神様は知らないけど」


いつもありがとう。


「そんなこといわないで」


終わりは一緒が良かったけど、天使だから、天使だから、ひとりで行くの。私の真新しい小さな羽じゃあ、あなたも一緒には連れていかれないから。


「あんたに地上は生きづらかったでしょう。重たくて、湿っていて。あなたの大きな羽はあちこちにつっかかってしまうし、あなたの純白に惹かれた人々があなたにこぞって足跡をつけて回るから。」


あたしのこと純白だなんて言ってくれるの、あなただけよ。


「そうなの」


あたしはずっと浅ましくて、汚れて、だから今すべての欲を捨てたの。そうして純白の羽を手に入れたの。きっとそう。あなたの瞳が澄んでいたから、私なんかが天使に見えたの。私にとっては、あなたが、なにより、清らかだった。


「あんたが、死ななければ」




人間はほとんど水分でできている。

だから、落ちる時はどすんじゃなくて、びちゃっとか、そんな音がするらしいと聞いたことがあった。だから実際に聞いた時、現実逃避なのかなんなのかまっさきに、ああ、水の音だな、と思ったのだ。彼女は神聖でも何でもなく、重力の前ではただの水の詰まった袋に過ぎなかった。彼女の、同年代の誰より若く美しかった体は、誰より醜く歪んで、真昼の太陽のもとに曝け出された。高校2年の真夏。


残ったのはたった一通の手紙と、破けて水分の抜けた肉の袋だけ。遺書は私宛の物しかなかったようだ。家族にも、学校にも、警察にも、伝えず、彼女は私にだけ手紙を残した。私はそれを、彼女の願った通りに、ひとりで読んだ。


しばらくサイレンが鳴り止まなかった。繰り返される、水音、窓の外、歪んだ肢体、誰かの悲鳴、永遠に失われてもう戻らないのだという、自分自身の足元からぐらつくような絶望。


でも、どうしたって悲劇だと思えなかったのだ。私はどう考えたって、彼女のハッピーエンドに巻き込まれただけだった。それでも憎めなかった。憎む先ももはや無かった。彼女は彼女自身で生き地獄をつくり、はだしで歩き続け、いたい、いたい、と泣き続けていた。それを美しいと感じてしまった。誰もが悪くて、誰もが正しくなかった。彼女に奇跡は降らなかった、どうしようもなく。


「さよなら」


大学でやったキャンプファイアに、こっそり彼女の遺書を放り込んだ。

魅力的な悪夢のような彼女との時間は、そこで人知れず燃え尽きた。


もう、姿も、言葉も、よく思い出せない彼女のことを、私はいつまでも愛していたくなかったのだ。

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それを神聖とするのは無理がある 幽彁 @37371010

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