愛縁奇縁

里 惠

【前世編〈忍〉】第零話:月夜を駆け抜ける


 風が鳴いていた。木々の梢を渡る夜風が、まるで遠吠えのように森を震わせる。


 湿った土を蹴る二人の足音は、忍びである少年の矜持をあざけるかのように夜の静寂へと刻み込まれていた。背後から迫る追手の殺気は、風に混じって肌を刺す。

 振り返ることすら許されぬ緊張感の中で、少年は少女の手を強く握り直した。この手だけは、何があっても絶対に離さないと。


  「行くぞ、如月」


 掠れた声で呼びかけると、少女は荒い息の合間にふっと笑みを零す。


 「ええ。……もう、戻らない」


 その言葉が、闇の森に灯る焔のように胸へ染み渡った。


 出会いは偶然だった。生まれ落ちた瞬間から意志を奪われ、命じられるままに人を殺す日々。

 笑うことすら忘れ、未来を夢見ることもなかった。……――――少年は、全てを諦めていた。


 一方で少女は、別の牢に囚われていた。成人の儀式、くノ一として大人になる証。

 それは見知らぬ男に抱かれる、逃れられぬ宿命。……――――少女は、恐れ未来を拒み続けていた。


 そんな少女に、少年は何が出来るのか……――――。


 気が付いたときには、その手を掴み走り出していた。細く震える手を掴んだ瞬間。

 獣道を踏み分け、枝に頬を切られても息を殺し一心不乱に駆け抜ける。


 逃避行の果てに待っていたのは、過酷な現実だった。追い詰められた崖の淵。

 背後には刃、眼下には轟々と渦巻く激流。逃げ場がないと悟った少年と少女は、一か八か崖下の川へと飛び込んだ。


 奇跡的に命は助かったが、代償は重かった。

 少年は片腕を失い、少女は片目を閉ざされたのだ。だが、それでも二人は生きていた。


 流れ着いた先の小さな農村。畑を耕し、初めて土の温もりを知る日々。

 慣れない生活に苦戦しながらも、二人で支え合って幸せに暮らしていた。するとある時、少年は村人から【若夫婦】と言われ思わず否定してしまう。


 それから程なくして、少女の元へ縁談話が舞い込んだ。

 少年は彼女が断ると思っていた。だが少女は考えた末で、静かに言った。


 「会うだけなら……」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ気がした。苦い痛みに耐えきれず、少年は咄嗟に少女の手首を掴む。


 「嫌だ」


 口をついて出た声は、今も耳に残っている。

 刃より鋭く、炎より熱く……――――あの時初めて、自分の意思で選んだのだ。


 「……どうして ? 」


 翡翠色の瞳が真っすぐに少年を見る。思えば最初から、惹かれていたのかもしれない。 


「好き……じゃから…………」


 陳腐な言葉。己でも情けなく思うほどに稚拙な告白。だが彼女は、頬を緩めて小さく笑った。


「遅いよ」


 その声とともに、少女の細い腕が少年の背をそっと包んだ。砕け散った心の欠片を、ひとつずつ拾い集めるように。


 少年の傷も、少女の傷も、容易く癒えるものではない。けれど、だからこそ残された命を共に生きようと……――――少年は、強く心に誓う。


「如月……」


 彼女の名を、夜の風に零す。




 震える木立の向こう。月が雲間から覗き、二人を淡く照らしていた。

 あの日の決意が……――――今に繋がっている。

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