第22話

 今日は違う飲み屋に行った。

 昨日のピアノを聞いてた人が、その店を教えてくれたんだ。すごく有名なピアノのある店らしい。お酒とかがメインじゃなくて、音楽がメインのお店なんだって。

 洗ったばっかりのローブで行こうとしたら、ベンが黒のジャケットを貸してくれた。こんなので行ったら怒られるって。でもジャケットなんて着慣れないし、少し大きいから俺は袖をまくった。ピアノを弾くんだし、これくらいは許されるよね。

 その店は町の中心にあって、すごく大きかった。何人でも入れそうなくらい、大きくて広いお店にぽつんとピアノがあるんだ。宿から近かったけど、びっくりするくらい目立ってた。ドアからのぞいたら、あんなに大きいピアノがすごく小さく見えるんだ。

 先に行ったレイチェルとジャスティスが店の前で待っていた。

「本当にいいのかな?」

 ジャスティスがそう言って、俺を見る。

「わざわざ名刺までくれたんだよ? 大丈夫」

 レイチェルがそう笑う。

 俺は正直笑えなかった。

 ドアから見る限り、平日の真昼間なのに満席なんだよ? このめちゃくちゃデカい店が。何にも考えてなかったから、弾く曲も思いつかない。手が震える。

 固まってたらレイチェルが、俺の手を引っ張ってドアを大きく開けた。そして入口にいた大きなおじさんに名刺を渡して、昨日紹介されてきましたと平然と言う。

 おじさんはすごくうれしそうだった。

「楽しみにしてたんだよ」

 そう言って、俺をどう見たって従業員用の通路に案内する。

 頭、真っ白なんだけど。無理だって。

「大丈夫。いつも通り弾いといで」

 メルディが俺の肩を叩いて、耳元で言った。

 俺はメルディを見た。

 メルディはにこっと笑った。

 それだけなのに、なんか大丈夫な気がするのはなんでなのかな? いける気がした。

 俺は頭の中で、一番好きな明るい曲を選んだ。一番最初に教えてもらったんだ。音楽って楽しいんだって思った曲だから。

 深呼吸をしてゆっくりと暗い通路を進んだ。ピアノは広い舞台の上にちょこんと乗っていた。スポットライトでキラキラしていて、すごく目立つ。

 舞台の横の階段で深呼吸をする。

 店の人なのかな? さっきのおじさんと同じシャツを着たお兄さんが俺の肩を叩いて行ってと言うのが聞こえた。

 いつもよりずっと遠いピアノまで歩いて行って、俺はお辞儀する。まだ何にもしてないのに拍手されて、ちょっと怖い。顔を上げたら、店の隅のメルディが見えた。

 大丈夫、いつも通り。俺はそう呟きながら椅子に座った。

 ピッカピカに磨かれたピアノの鍵盤を撫でて、俺は目を閉じた。ここはあの日の音楽室。だから大丈夫。失敗したって誰も聞いてない。そもそもバカにされる事にも、笑われる事にも慣れてる。

 俺はゆっくり目を開けて、そして一つ目の音を鳴らした。

 良く響く。いい音だ。

 楽しかった。こんなにきれいな音のするピアノなんてはじめてだったから。ただ鍵盤に指を乗せるだけで柔らかい透き通った音が響くんだ。夢中でピアノにかじりついて、俺はただただ鍵盤を叩いた。すごく楽しい。胸が苦しいのは、きっと楽しいからだ。

 そんなに長い曲じゃないから、すぐに終わってしまうのが少しもったいない。でもいいんだ。また別の日に弾けばいいんだから。生きてたらまた弾けるんだから。ピアノはどこに行ったってあるんだから。

 そうして気付いた時には、曲が終わっていた。

 なんだかいつもより短く感じる。

 拍手の音が聞こえてから、我に返って立ち上がった。頭を下げると、もっと大きな拍手が聞こえた。ピアノの音なんかよりずっと大きな音だ。

 ドキドキする。体が重い。苦しくて、俺は少し急いで舞台を降りた。そのまま階段の下に座り込んだら、今度は立てなくなった。腰が抜けたのかと思ったけど、違った。苦しい。痛い。声も出ないくらい。

 息をする度、胸を刺すように酷く痛むんだ。血なんて流れてないのにな。腹を刺した事があるんだから確かだと思う。でも今はあの時なんかとは比べられないくらい痛いんだ。

 そう言えば薬はローブのポケットだ。

 俺は顔を上げた。

 ジャスティスが走ってきて、俺の背中を撫でる。あのビンを持っていた。

「大丈夫? 薬、飲める?」

 手が震えていて、とてもじゃないけど、そんな小さなビンは持てなかった。

「しっかりして」

 ジャスティスの声が聞こえて、茶色い薬が口に入ってくる。必死で飲み込んだけど、気分が悪くて吐いちゃいそうだった。不味くない筈なのに。

 くらくらする。ぐーるぐると目に入ってくるものが回る。すごく揺れてる。気分がどんどん悪くなってく。額から流れて行ったのはきっと冷や汗だ。

「クライブ」

 俺を呼ぶババアの声が聞こえた。

 きっとげんちょうってやつだ。そうだって信じたい。

 冷や汗が止まらない。

 俺はジャスティスにもたれて、そのまま目を閉じた。乱暴に揺さ振られるけど、どうにも出来ない。かすれた声しか出なかったけど、なんとか言った。

「苦しい」

 今度口に突っ込まれたのは、汁じゃなくて、塊だった。なんかめちゃくちゃ不味くて、飲めない。

 まるで腐った肉をスモークしたみたいな、吐き気しかしない臭いが鼻を抜ける。飲んだら死にますよって言ってるような、ヤバい味がする。こんなの、ジャスティスが寝込んで食べるものがなくなった時に食った、冷蔵庫の奥底にあった半年前のビーフストロガノフ以来だ。あれ食った後、俺も寝込んだっけ? 一口しか食べてないのに。

 それでもなんとか飲み込んだ。

 舌にしつこく残る味が最悪。これならキノコまみれのポトフのがいい。ジャスティスの味付けだったら、まだ食べられる。好きじゃないけど。

「やっぱり限界だったんだよ」

 親父の声が聞こえる。

「やっぱり無理をしてでも連れ戻すべきだったのよ」

 今度はババアの声。

 げんちょうじゃなかった。もっと最悪だ。

 ジャスティスが俺の肩を揺すって、何度も何度も名前を呼ぶ。答えられる状態じゃなくて、目を閉じたまま必死で息をした。苦しいのにジャスティスがしがみついてくる。腕を回して、俺の首を締めるつもりか? そんな事しなくたって、息なんて出来てねぇよ。

 メルディはどこ?

 手をにぎってほしい。そばにいてほしいんだ。

 どうしていつもみたいに髪を撫でてくれないんだよ?

 どうして大丈夫って言ってくれないんだよ?

 かすれたジャスティスの声が、耳元で聞こえた。

「寿命なんて嘘でしょ? 嘘だって言ってよ」

 なにそれ? 俺の寿命って何?

 もうピアノを弾けないの? もう旅は終わり? もうメルディと一緒にいられないのかよ?

 そんなの嫌だ。もっといろんな町に行きたい。もっともっとピアノを弾きたい。ずっとメルディと一緒にいたいよ。まだ死にたくない。生きたい。

 そうだ、生きたいんだ。

 生きて生きて、もっと楽しい事、うれしい事、知りたいんだ。本が読めるくらい字を覚えて、チップだって自分で数える。ピアノだって、もっともっといろんな曲を覚えたい。美味しいお菓子も、ご飯も、もっともっと食べたい。海みたいに、俺の知らないいろんな場所を旅したい。

 そうしてメルディと、一緒に景色を眺めるんだ。

 変なの。あんなに死にたかったのに。

 ずっとずっと死にたかった。殺してほしかった。目が覚めなきゃいいって思ってた。生きるのは痛くて苦しくて、かなしかった。ずっとずっと一人で、それが当たり前だと思ってた。こんなにきれいな世界があるなんて知らなかったんだ。

 今は嫌だ。生きたい。メルディと一緒に生きたい。

 やっと生きたいって思ったのに……。

「俺、死ぬの?」

 俺はジャスティスに尋ねた。

 ジャスティスはぎゃんぎゃん泣いてて、なんにも答えない。痛いのに、俺にしがみついてくるんだ。

 どうしてだろう。いつだって俺ばっかり、かなしい思いをするんだろう。

 やっと生きたいと思ったんだ。やっと、やりたいと思った事を見つけたんだ。やっと、死にたくないと思ったんだ。生きたいと思ったんだ。

 それなのに、俺、死ぬんだ。

 言っただろ? やっぱり神様なんかいないんだ。

 俺を好きでいてくれる悪魔はいるのに、神様だけはいつだって俺の事が嫌いなんだ。いつだって、俺を一人にして、俺からしあわせを取り上げて、俺にかなしい事を押し付ける。産んだらそのまま放ったらかしの、あの人達のがまだマシなくらい。神様なんか嫌いだ。

 どうして、神様は俺から全部、奪ってくんだよ?

 メルディと一緒にいたいだけなのに……。

 他にはなんにもいらなかったのに……。

 涙が止まらない。もう目を開けたってなんにも見えない。せめてメルディの顔を見たい。なのに、たったそれだけの事すら叶えてくれない。

 胸が締め付けられる。すごくすごく痛い、苦しい。どこにいるんだか分からないけど、きっとそばにいる。絶対、一緒にいるって言ってくれたんだから。

 俺は手を伸ばした。

 ひんやりした柔らかい手が握りしめてくれる。

 メルディだ。俺の一番好きな人。大好きな手だ。

「死にたくない、やっと死にたくないって思ったのに」

 メルディから遠ざけるように、死神が反対側の手を引っ張ったような気がした。

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