完璧だと思っていた私の世界に、最初の「ずれ」が生じたのは、本当に些細で、取るに足りない出来事だった。

 それは、巨大なダムに走る、髪の毛ほどの微細な亀裂。

 あるいは、純白のキャンパスに誤って落ちた、一滴の黒いインク。

 意識しなければ見過ごしてしまうほど小さく、しかし、一度認識してしまえば、決して目を逸らすことのできない、不吉な予兆だった。


 いつものように、放課後の図書館の片隅、私だけの指定席と化した閲覧机で、近代ロシアにおける虚無主義思想の変遷についての論文を読み進めていた時のことだ。

 参考文献として挙げられていた、ある哲学者の著作。

 以前、一度目を通したことのあるものだった。

 その一節を、記憶の再確認のために原文で読もうとした。


『……虚無とは、単なる不在を意味するのではない。それは、かつて存在したものの価値が剥奪され、その喪失感すらも風化し、後に残された絶対的な無関心とでも言うべき……』


 文字が、ただのインクの染みに見える。

 いや、違う。意味は理解できる。

 単語も、文法構造も、私の頭の中のデータベースと照合すれば、すぐにその論理的な役割を明らかにする。

 しかし、その一節が持つはずの、あの深く冷たい「重み」というか、「概念の塊」のようなものが、どうしても私の意識の中に像を結ばないのだ。

 まるで、ピントの合わないカメラで風景を覗いているような、もどかしいほどの隔靴掻痒。

 以前読んだ時は、この数行に込められた思想の深さに、背筋が凍るような戦慄を感じたはずだった。

 それなのに、今はどうだ。表面をなぞるだけで、その核心に指が届かない。

 上質な劇薬が、ただの蒸留水に変わってしまったかのように、手応えがない。


「……疲れているのかしら」


 私は小さくため息をつき、そう結論付けた。

 最近、少し研究に没頭しすぎていたのかもしれない。

 人間の脳も、精密機械と同じだ。

 適切なメンテナンスを怠れば、パフォーマンスは低下する。

 今日は早めに切り上げて、質の高い睡眠を確保すべきだろう。

 私は手早く資料をまとめ、思考を切り替えるように図書館を後にした。


 些細な不調。

 明日になれば、すべて元通りになっているはずだ。

 そう、自分に強く言い聞かせながら。


 しかし、その夜。

 自室のベッドの中で、昼間どうしても掴みきれなかったあの一節が、まるで悪夢のように頭にこびりついて離れなかった。

 完璧なはずの白い壁に、ほんの小さな、しかし確実に存在する黒いシミを見つけてしまったような、言いようのない不快感。

 眠りは浅く、何度も目が覚めた。


 翌日。

 私の世界に生じた亀裂は、修復されるどころか、僅かにその幅を広げていた。

 いつものように体育館の多目的スペースに立ち、新体操のルーティンであるストレッチを始めた時のことだ。

 床に座り、両脚を大きく開いて上体を前に倒す。いつもなら、胸が床にぴったりとつくほど、私の身体は柔らかいはずだった。

 しかし、今日はどうだ。

 あと数センチというところで、太腿の裏側の筋肉が、まるで錆びついたワイヤーのように強張り、ピリピリとした痛みを訴える。

 これ以上は無理だと、身体が私の意志に反旗を翻している。


「……っ」


 驚きに、思わず声が漏れた。

 こんなことは、新体操を始めてから一度もなかったことだ。

 私の身体は、常に私の意志を忠実に実行する、完璧な道具だったはずだ。

 それなのに、この微かで、しかし明確な「拒絶」は、一体何なのだ。

 深呼吸を繰り返し、もう一度試す。

 だが、結果は同じだった。

 まるで、私の脳から身体の末端へと繋がる命令系統のどこかで、信号が劣化しているかのような、不気味な感触。


 結局その日、私はいつものウォーミングアップを完璧にこなすことができなかった。

 リボンを手に舞ってみても、どこか動きが硬い。跳躍の高さが僅かに足りず、回転の軸がぶれる。

 完璧な調和から生まれるはずの全能感は訪れず、ただ、自分の身体が自分のものでなくなりつつあるような、薄ら寒い不安だけが背中に貼り付いていた。


 また翌日、数学の授業でも、亀裂はさらに深まった。

 ベクトルの内積を用いた、ごく基本的な図形問題の解説。教師が黒板に書き出す数式を追っていた、その時。


(……あれ?)


 一瞬、思考が停止した。

 展開される公式。その次の行への変形。なぜ、そうなるのか。

 当たり前のはずの論理の繋がりが、ほんの数秒間、私の頭の中からすっぽりと抜け落ちたのだ。

 目の前にある数式が、意味を持つ記号ではなく、ただの不可解な図形に見えた。

 数秒後には、「ああ、そうだった」と何事もなかったかのように思考は動き出し、教師の説明にもついていけた。

 しかし、あの「空白」の感覚は、私の背筋に冷たいものを走らせた。


 以前の私には、あり得なかったことだ。

 どんなに複雑な問題であっても、思考が「停止」するなどということは。それは、思考の放棄であり、知性への裏切りに他ならない。

 もちろん、人間である以上、些細な記憶違いや、一時的な集中力の低下は起こりうる。

 しかし、今日のこれは、それとは明らかに質が違う。

 まるで、私の脳内に一瞬だけ濃い霧がかかり、視界を奪われたような、あの不気味な感触。

 私は、何事もなかったかのようにノートを取り続けながら、内心で冷静に分析を試みた。

 睡眠不足か? 栄養バランスの偏りか? あるいは、無自覚なストレスの蓄積か?

 原因は特定できない。

 しかし、この微かな「ノイズ」を放置しておくわけにはいかない。

 私の城壁は、完璧でなければならないのだから。

 その壁に、シミ一つ、亀裂一本たりとも許すわけにはいかないのだ。


 私は、この由々しき事態を「一時的なスランプ」だと断じることにした。

 そして、それを力ずくでねじ伏せようと決めた。

 スランプならば、さらなる努力によって克服できるはずだ。

 それが、今まで私が信じてきた唯一の方法論だったのだから。

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