第7話 いいんだよ、ちゃんとしてなくても

わが庵は 都のたつみ しかぞ住む

世を宇治山と 人はいふなり

—喜撰法師


——



風は、南東から吹いてきた。


 木々をかすめ、川をわたり、誰にも気づかれずに山あいへと昇っていく。

 その流れに乗って、手紙は届いた。


 差出人の名も、宛先の名もない、けれど確かに「誰かに向けられた」言葉が、

 その紙の上には記されていた。


 


  ――わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞ住む

   世を宇治山と 人はいふなり


 

 たぶん、これは言い訳なんだと思います。


 あの頃の私は、誰からも「ちゃんとしているね」って言われていた。

 子どももいて、夫もいて、近所づきあいも悪くなくて。

 小綺麗な服で、弁当も欠かさず作って、PTAにも顔を出して。


 でもね。

 本当の私は、そのどこにもいなかった。


 


 “いい奥さんだね”“しっかりしたお母さんだね”

 そう言われるたびに、誰かが私の中に貼ったラベルの重さに、

 呼吸が少しずつ浅くなっていった。


 気づいたら、声を出すのもつらくなっていて、

 家の中にいても、どこかで誰かの視線を探していた。


 


 だから私は、逃げたんです。


 言い訳みたいだけど、でも逃げたんです。


 都のたつみ、

 すこし離れた山の中に、ぽつんとした古い一軒家。

 誰にも住所は教えていません。

 ここでは、誰も私の名前を呼ばない。

 それだけで、息ができるようになりました。


 


 朝になると、霧が縁側に降りてきます。

 草のしずくの音も聞こえるくらい、静かです。


 味噌汁の湯気よりも、沈黙のほうがあたたかく感じる朝。

 それが、今の私の暮らし。


 


 ママ友だったあの人が、

 最後にくれたあの言葉を、まだ覚えています。


 「いいんだよ、ちゃんとしてなくても」って。

 「ちゃんとしたって、消えてしまうものもあるから」って。


 あの時、何も返せなかったけれど、

 今になって、ようやくその言葉の意味がわかります。


 


 私は、ちゃんとしてなくても、生きていていい。

 誰かのためでなく、何者かでなく、

 ただ“私”でいても、世界は崩れたりしない。


 だから、この山を選びました。

 ここが、私の“庵(いほ)”です。


 


 名前も、肩書きも、誰かの視線もいらない。

 それが、今の私の「しかぞ住む」。


 


 だから、どうか――


 あのときの私のような誰かに、

 この風が、少しでも届きますように。


 


 


 ――風が止まった。

 手紙は、静かに郵便局の棚に収まった。


 


 局員は一言も発さず、それを受け取る。

 どの引き出しに入れるか、すでに分かっていたかのように。

 棚の奥、少しだけ色褪せた封筒たちのあいだに、

 それはゆっくりと滑り込んだ。


 その仕草は、どこか懐かしいものに触れるようだった。


 彼女の目は、その封筒を見つめていない。

 けれど、手のひらだけが微かに、熱を宿していた。


 


 ――そしてまた、風が吹いた。

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