『YESの地獄(イエス・ヘル)』

稲佐オサム

第一章:YESマン、誕生


「あなたの人生、YESが足りないのでは?」


その言葉が、人生を変えた。

ある夏の日、五条一真(ごじょう・かずま)は、コンビニのレジ横に置かれた一枚のチラシに目を留めた。

「奇跡が起きる“YESの法則”体験セミナー」──という、いかにも怪しげなコピー。だが無職三ヶ月目の彼には、それさえもまばゆく見えた。


大学卒業後、なんとなく入社した広告会社は、なんとなく合わず、なんとなく辞めた。

就職もせず、バイトも続かず、気づけば貯金は4万円。

家族にも友人にも連絡を絶ち、唯一の楽しみは深夜の動画とカップラーメンだけ。


そんな中、ふと目にした「YES」という言葉が、胸に刺さった。



会場は思ったよりまともだった。


白い壁、折りたたみ椅子が40席ほど。参加者の年齢層はばらばらで、スーツ姿のサラリーマンから、主婦、高校生らしき少年もいた。

「自己啓発」という言葉に対する警戒心は、だんだんと和らいでいく。


壇上に現れたのは、40代半ばの男。黒のシャツにジーンズ、声に独特の艶がある。


「皆さん、こんにちは。YESコーチの真城(ましろ)です」


彼は笑顔で言った。


「今日は皆さんに、“たった一言”で人生を変える方法をお教えします」


スライドが切り替わる。


画面に大きく、白抜きの文字。


【YES】


「この言葉には、奇跡を起こす力があるんです。

なぜなら、選択肢が現れたとき、YESと答えることで、あなたは“変化”を選ぶことになるから。変化はチャンス。チャンスは成長。そして成長こそ、人生の喜び」


拍手が起こる。五条はぼんやりと眺めながらも、心の奥がじわじわと熱くなるのを感じた。



「例えば今日、このセミナーに“YES”と答えた皆さんは、もう変化を選んでいる」


真城の声は、静かに強く響いた。


「ここから先、あなたの人生に選択肢が現れたとき、YESと答えてみてください。すぐに結果は出ないかもしれない。むしろ苦しいかもしれない。でも、必ず、何かが動き出します」


言葉は魔法のようだった。

五条の中の“空っぽ”に、水が染み込むような感覚。


──俺はYESで、変われるのか?



セミナーの帰り道、スマホを取り出して、メモに打ち込んだ。


【実験開始】

「この世の全てにYESと答えてみる」

期限:無期限

目的:人生が変わるかどうか

例外:なし

拒絶:禁止


街のネオンが光っていた。

自販機のコーヒーを買うか迷った瞬間、五条はYESと呟き、缶を買った。


ほんのりと苦く、温かい。


──これが、“変化”の味か。


彼は微笑んだ。

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