渇望

うたたね

渇望

『では、今日の天気予報です』

 天気予報士のお姉さんのたおやかな声を右から左に流して、私は席を立った。向かう先は冷蔵庫。

 鮭を箸で切り分けていた母がくるっとこちらを振り返る。

「ちょっと朝喜あさき、お味噌汁、まだ残ってるでしょ」

「だって喉渇いたんだもん」

 そう、喉が渇いたのだ。湿度が高いのだからぜひ喉には潤っていてほしいところだが、あいにく、人の体というのはそこまで単純なつくりをしてはいないらしい。

『現在の広島市は28℃。最高気温は35℃となっています。熱中症警戒アラートが発令されているので、室温の積極的な調整、こまめな水分補給を心がけてください』

 深刻そうなお姉さんの言葉に、ほれ見たことかという顔を私はする。母があきれたように眉をハの字にした。

「麦茶を飲みまーす」

 みんなは、と訊くと、母はいの一番に首を振った。

「母さんは食べ終わってから飲む」

「父さんは麦のお酒が飲みたいなあ」

「…ビールはセルフサービスでお願いしまーす」

「えっ、自分でならいいの!?」

 ふざけたことを言って父が立ち上がった。そのままうきうきとした足取りで台所に来かけて「何言ってんの仕事でしょ」と母に向こう脛を蹴られている。澄まし顔で味噌汁を啜る母、わっはっはと爆笑する父、いつもの夫婦漫才。

 今日も我が家は平和である。

「おばあちゃんは?」

 両親を放っておいて、私は反対側へ首を向ける。ふわふわとした白髪が眩しい朝日に輝いていた。

「麦茶、飲む?」

 ちまちまとご飯をつまんでいた手が止まる。うーんと可愛らしく思案の声をあげて、祖母は「お水が飲みたいねえ」と微笑んだ。

「お水か!いいよ、氷はいる?」

「欲しいわねえ。みっつ、ちょうだいな」

 はいはーいと返事をして、私は祖母の分の湯呑を取り出す。大きな粒の氷を詰めたそれに水を注ぐと、からころといかにも涼しげな音が転がった。

 自分の湯呑にもたっぷりと麦茶を注ぎ、ちゃっかりと氷をよっつ入れて、私は席へと戻る。

 湯吞を手渡せば、祖母は「ありがとうねえ」と言ってひと息にそれを飲み干してしまった。豪快な飲みっぷりで嬉しくなる。

「お母さん、冷たいもの一気に飲むと体によくないんじゃない?」

 母が控えめに声をかけた。

「うちゃまだ90歳ですよ。このくらいどうってことないわ」

「87歳でしょう、お義母さん」

「あんた混ぜっ返さないでよ」

 夫婦漫才第2弾をBGMに私は湯吞を傾ける。

 確かに、冷房の効きすぎとか、冷たいものをたくさん摂ることとかは高齢者にはよくないと言われている。体温が急に変化するから負担が大きいのだろう。実際、祖母も冷房が苦手ではある。

「おばあちゃん、冷たいものはいっぱい飲むよね。特に氷の入った水」

「だってねえ、おいしいのよ」

 祖母はにっこりと笑う。口元の笑い皺が深くなった。

「それに、まい頃はねえ、『水を飲んだら死ぬぞ』ってよう言われとったんよ」

「えっ、死ぬ!?なんで!?」

 逆じゃないの、と声をあげれば、祖母の白い眉がほんの少し下がった。

「ななつの時、ピカが落ちてきた」

「…原爆のことだよね」

 ほうよ、と祖母が頷く。

「ピカで焼かれて、人が大勢死んだ。死なんでもたくさんの人が大怪我をした。ご飯中に言うことじゃないが、爆風で吹っ飛んで内臓をおかしくした人や、全身大火傷で目も開かんようになった人もいた」

 うちもね、と祖母は左手を振ってみせた。周りの肌よりも濃い、茶色に近い色が広がっている。

「左腕が爛れてしもうた。もちろん他にも怪我をしたとこはあったんじゃけど、とにかく左腕が痛くて痛くて、それに熱くってねえ」



『水をください』

 運び込まれた救護所で、幼い祖母は声を嗄らして言ったのだそうだ。

『腕にかけるのでも、飲ましてもらうのでもええんです。水をください』

 焦げ臭さと生臭さの入り交じる室内、周りでも同じような声があがっていた。しわがれた年寄りの声、舌っ足らずな子どもの声、女学生の細い声、大人の男の人の太い声。みんなが口々に水をくれえ、とうめいている。

『悪いなあ』

 医者は絞り出すような声音で謝ってきた。

『水はやれん。あんたらに生きてほしいけえ、水はやれんのじゃ』

 もう少しだけ我慢なあ。

 そう、苦しそうに医者は言う。火傷を避けて頭を撫でてくれたその手も、血が乾ききっていなかった。



「水をね、飲みたかったのよ。ひと口だけでも飲みたかったの。」

 あの時、飲めなかったから。

「足りない分、今こうして飲んどるのよ」

 茶の間はいつの間にかしんと静まり返っていた。淡々と語る祖母の口調は、いつもと違って、少しだけかさついてささくれだっている。


(おばあちゃんは、)

 きっとまだ渇いている。

 あの時得られなかったもの、失ったものを求めて、求めて、今もずっと。


「…おばあちゃん、お水、もっと注いでこようか」

「あらあ、いいの?」

 うんと頷くのが精いっぱいだった。奪い取るように祖母の湯吞を取り上げて私は台所に向かう。ぎゅっと氷を詰めて、よく冷えた水をふちのぎりぎりまで注ぐ。

「はい」

 ありがとうねえ、と祖母は笑う。しみの浮いた左手が湯呑を受け取った。

「なくならないし、もっとあるから」

 いつでも言って、と呟いてみる。ぶっきらぼうな響きになった気がして、私は慌てて祖母の顔を窺った。

「…そうねえ」

 大事そうに持ち直された湯呑が祖母の口元でゆっくりと傾く。

 今度は一気飲みではなくて、ひと口ずつ味わうように、祖母は私の注いだ水を飲んでくれた。

「ゆっくり飲むと甘い気がするねえ」

 朝喜ちゃん、ありがとうねえ、ともう一度祖母が言う。


『次のニュースです』

 天気予報は知らないうちに終わっていた。

『今日8月6日は広島慰霊の日。広島平和祈念公園と中継が繋がっています―』

 ぎらつく太陽の下、80年前とは違う一日が始まる。

 おばあちゃんが、きっと全世界の人が、喉から手が出るほどに欲しいと願う平和を、私たちはこの地で祈り続けている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

渇望 うたたね @czmz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ