蝉叔父さん
筋肉痛
本編
叔父は蝉になっていた。それも瀕死の。
暑さで頭が茹ってしまったわけではない。僕には叔父の姿がそうとしか見えなかった。
猛暑日の太陽光に熱せられ、砂漠のように乾ききった公園の地面にうつ伏せになり、両手を断続的にバタバタさせながら、時々「ジジ……ジ」と鳴いていた。
視線の先の
周囲の木々には生を謳歌する正真正銘の蝉が何匹か止まり、葉ずれの合間にうとましい鳴き声が響き渡っている。恋を呼ぶ命懸けの大合唱だ。木陰さえ熱気を帯び、枝先の葉が乾いた風に震え、蝉の抜け殻が地面に散らばっている。
一方、叔父は今にも力尽きようとしている蝉だ。不用意に近づけば最後の力を振り絞って、強く羽根を動かし僕を驚かすかもしれない。
耳をつんざく大合唱と叔父のか細い声のコントラストが、僕の心の壊死しかけている部分をやんわりと刺激している。
普通に考えれば警察を呼ばれる事案、あるいはドッキリを疑う滑稽な光景だ。けれど、何故か僕は安心していた。叔父があの頃のまま、変わらず生きている。それだけで少し許された気がした。
◇
高校を出てすぐ、家業の屠殺場に就職した。初日から、鼻の奥にまとわりつく匂いに耐えられなかった。三週間たった今も毎日吐いている。殺す瞬間を直視できず、声を出すのも怖い。そのせいでタイミングがずれると先輩にひどく叱られる。
経営者の息子だろうと関係ない。むしろ、父親が厳しくするようにお願いしていた。そこではあらゆるストレスが僕の五臓六腑を痛みつけていた。
匂いも、音も、全部が生々しい。床に染みついた染みは、どれだけ水で流しても薄くならない。殺すための機械の大きな駆動音と家畜の断末魔が、夜になっても耳の奥でくり返された。最初に首を落としたときの感触は、手にこびりついて離れない。
地獄を具現化したらこんな風になるのだろうなと僕は思っていた。
それでも、家に帰ると父は言う。「大事な仕事だ。いずれ慣れる」母は笑って「あなたは優しいから」と慰めてくれる。
甘えにも似た優しさは、むしろ僕を苦しめていた。思うにそれは遺伝に違いない。両親は決して強制しなかった。むしろ継ぐことを薦めていない空気すらあった。その優しさは残酷で、少し恨んでいる。
僕には取柄も無ければ、将来への意思も無かった。消去法でなんとなく生きている。だから、強制しなくても僕が家業を継ぐのは必然だった。両親はそれが分かっていたから、優しくしてくれたんじゃないかと疑う夜もあった。
しかし、それは違うと今なら分かる。強制した事により壊れてしまった先例があるのだ。それが叔父なのだろう。
家畜達への申し訳なさも日々僕を苛んだ。こんな曖昧に生きている僕なんかのために、彼らの生を奪う必要があるのだろうか? むしろ僕があの機械で八つ裂きにされればいい。3日に1回はそんな風に思った。実行をする勇気は無かったが。
そんな風にウジウジとしている間にも、生は肉となって積み上がり淡々と出荷されていった。
「ジ……ジ……」と鳴く叔父の姿が、羨ましい。
十年以上会っていないのに、すぐに分かった。骨格、顔つき、あの時と変わらない“空気”が、炎天下の地面から漂っていた。その上、こんな奇行は叔父以外にあり得なかった。
叔父は少なくとも僕が出会った時から変だった。年賀状にはなぜか「ハッピーハロウィン!」と書いてあり、会えば「人間も三回脱皮する説」を真顔で語ってきた。親戚は皆、叔父を疎ましく思っていたようだけど、小学生だった僕は、なんとなく面白くて、少し怖くて、でもやっぱり好きだった。
『──また蝉の季節だね。君も鳴くころだと思ってさ』
数日前、叔父から届いた葉書の文面は、それだけだった。差出人の名前はなかったが、真夏にクリスマスカードで送ってくるセンスと、僕を君と呼んでいる事からすぐに叔父だと分かった。
親族に君と呼ばれることは、なんだか気恥ずかしさもあったがその距離感が逆に心地よかった。
何年も会っていなかったし、救えなかった自分達の罪を嫌でも思い出してしまう叔父の話題に両親は触れたがらなかったけれど、その葉書を見たとき、体が先に動いていた。
それらしい言い訳で休みをもらって、電車とバスを乗り継ぎ、叔父の住んでいた町に来た。築40年以上のオンボロという言葉がよく似合う木造アパートの叔父の部屋を訪ねたが反応が無かった。炎天下で待つのは自殺行為だ。死ぬのは別にいいが、苦しみたくはない。
この期に及んで独善的な自分に嫌気が差すが、優しさと言う名の免罪符は自分へも有効だ。
近くの喫茶店か図書館にでも行こうかとアパートの玄関を出た時、A4サイズくらいの画用紙がひらひらと目の前に落ちてきた。反射的に手に取る。落ちてきた先に視線をやると、叔父の部屋の窓に行き着いた。洗濯竿に同じような紙が何枚か干してある。
手元の紙に視線を移すと、少しギョッとした。水彩絵の具で稚拙な絵が描かれている。幼稚園児くらいの画力であることに驚いてしまったのだ。叔父は家業ができなくなって以降、実家からの支援で暮らしており、独身で子はいない。
自然に考えれば、この絵は叔父が書いたということになる。その事実がすぐには受け入れがたかったか、あの叔父ならまぁそうだろうと失礼な結論に至る。
モチーフは断定はできないが、多分蝉だ。木の枝の上に横たわるという不思議な体勢で描かれているので判別が難しい。なぜ、縦に描かないのか? それは叔父に聞いてもきっと分からないだろう。
そういえば、叔父の手紙にも蝉が出てきたな、と僕は蝉の鳴き声に導かれるように裏の公園へ向かった。
公園には人影がなかった。この気候では昼間は公園では遊べない。居るのは、蝉か陽炎くらいだろう。そう思って引き返そうとした僕の視線に一瞬に何かが映った。
それが瀕死の蝉になった叔父だった。あまり足元に視線を向けることがないから、気づかなかった。
声をかけようとして、迷う。この状況に、どんな挨拶がふさわしいのか分からない。多分世界中を探しても分かる人なんていないだろう。出てきたのは無難な挨拶だった。
「……お久しぶりです」
小さく声をかけると、叔父はピクリと動いた。ゆっくりと、焼けた地面から顔を上げ、こちらを見上げた。
「おお……君か」
ゆっくりと立ち上がる。満面の笑みだった。汗で砂がこびりついているのに、笑っていた。
「何も無い所だが、まぁとりあえず座りたまえ」
まるで自分の家のような口ぶりで叔父はそう言うと、近くのゆらゆら揺れて遊ぶ消防車型の遊具を勧めてきた。近くにベンチがあるのに……叔父らしくて僕は吹き出してしまう。
「なんだ、パトカーの方がいいか? すまない、これは私専用なんだ」
「いえ、こっちでいいです」
僕は勧められるまま、遊具に座った。大人が乗るには少し窮屈だが、乗れないことはない。だけど、熱い。太陽に炙られた金属の座面が皮膚をじりじりと焼く不快な熱さで、汗が背中を伝い、乾いた土の匂いが鼻を突く。これでは子供は確かに遊べない。
「さっきは一体何をして……」
そこまで口にして、やめた。聞いてどうする。聞けば分かるのなら、僕は僕自身に問うている。何を悩んでいるのか、と。叔父が瀕死の蝉になったのは、そういう類のものだということだけは聞かなくても分かった。
僕は消防車を揺らす。大人の体重の負荷は思ったより大きく、予想以上に大きく揺れて脈拍が少し早くなった。牛だった大きな肉塊が吊るされブラブラと揺れる様がフラッシュバックして吐きそうになる。
「おっ火災発生だな。現場へ急行せよ!」
叔父はパトカーを揺らしながら、拳を振り上げて叫ぶ。その声が僕を現実に戻した。半裸の中年男性と並んで遊具にまたがる姿は、浮世離れしているがその方が今は良かった。通報されはしまいか。それだけが心配だったが、この暑さではこんな辺鄙な公園に来る人はいないだろうと自分に言い聞かせる。
叔父の瞳は澄んでいて揶揄う意思は微塵も感じられなかった。きっと叔父は幼い子供に心が退化してしまったのだ。
叔父の冗談か本気か判別がつかない発言に僕はまた悩みの種を植え付ける。僕の仕事が消防士みたいに分かりやすく社会貢献できるものだったらどれほど良かったか。
しばらく慣性に任せて揺れていると自分の浅はかさが体中に染み渡る。消防士になったら救えなかった命に悶々とするに決まっているのだ。また、ふさぎ込んでしまいそうになる僕に叔父が語り掛けるように言った。
「今年の土はね、いい感じ。ちゃんと目が覚める味がする」
「……味?」
叔父は口の周りについた砂粒をペロリと舐めた。
「うん、やっぱりな。梅雨の湿り気が奥の方に残ってる。良い蝉は土の味が分かるんだよ」
この人は、いつからこうなったんだろう。僕と同じで、命を商品として扱う事に耐えかねたんだと思う。母は「あの人はもともと変わってた」と言い、父は「気をつけろ」とだけ言った。祖父は「仕事から逃げる情けない奴」と怒鳴っていたような気がする。でも、僕の中ではずっと“変なことを言って、でも優しくて、なんだか楽しそうなおじさん”だった。
小さい頃の記憶が、不意に溢れた。
夏の終わり、家の庭に落ちていた一匹の蝉。バタバタと足を動かしていたけど、飛べる気配はなかった。可哀想に思えて、近くの木の枝の上にそっと置いた。
「どうしてそこに?」
いつの間にか後ろにいた叔父に訊かれて、「蝉さんがいつも居るところに戻してあげたの」と答えた。すると叔父は僕の頭に手を置いて言った。
「蝉はさ、何年も土の中にいて、鳴けるようになるのは最後の1か月だけなんだ。だから、その声は最後まで仲間に届くようにしてあげた方がいいよな」
うんうんと叔父は何度も頷き、感極まったのか僕を抱き上げて叫んだ。
「君は自慢の甥だ!」
少し恥ずかしかったけど、心がふんわりと軽くなった気がした。
そうか、あの絵はこの思い出を描いたものだったのか!
だとしたら……叔父を蝉にしたのは、僕なのかもしれない。
あれから十五年。
僕は今、叔父の後を追っている気がする。殺して、解体して、提供して、自立して、社会に貢献するんだと父から教わった。頭では分かっている。何も悪いことはしていない。人の営みの中で絶対必要な仕事で、僕らが精製する食肉を待っている人々がたくさんいるってことを。
だけど、心は割り切れない。擦り切れていく。
叔父と僕の間に沈黙が落ちる。遊具が軋む音と蝉の声だけがその場を支配していた。このまま熱中症で叔父と二人まとめて倒れても、蝉の声は響き続けるのだろう。
僕らは彼らみたいに世界に喧騒を与えることすらできない。ただ生まれ、惰性で生きた上に多くの命を奪い、静かに消えていく。
「君も蝉になりたいのか?」
「……え」
叔父は僕の顔をまじまじと見ていた。虫でもついているのかと思って、頬に触れると水分を感じた。僕は涙を流していたらしい。
「遠慮することはない。我々に羽根はないが、蝉は土の中にいる時間の方が長いんだ」
叔父は笑顔でそう言って、再びゆっくりゆっくり、まるでスローモーションのようにうつ伏せになった。僕にこうしろと見本を見せてくれているみたいだ。
叔父はもしかしたら全てを察しているのかもしれない。自分と同じように壊れそうになっている僕を励まそうとしているのかもしれない。だから、二人の思い出の中にある蝉を真似ているんじゃないか。
叔父の赤い背中をじっと見つめてもその答えは浮かんでこない。
僕が叔父を蝉にしてしまったのだとしたら、僕が蝉になれば叔父は人に戻るのかもしれない。
だから、僕も蝉になることにした。
「ジジ……ジ!」
「ジ……ジジジ!」
叔父と並んでうつ伏せになり、僕も鳴き始めた。最初は声が出なかったが、次第にその響きが心の奥深くに染み込んでいくのを感じた。涙が止まらなかった。汗と涙が混じり、顔がぐしゃぐしゃになりながらも、心は不思議と静かだった。蝉のように鳴いているうちに、命の重さと、これまで僕が抱えてきた全ての痛みが、じんわりと溶けていくのがわかった。
もう、何も怖くはない。
ただ、声を出し続けるだけだ。
地面は熱い。
風は吹かない。
それでも、蝉は鳴く。
夏がいつまでも続くと信じて。
蝉叔父さん 筋肉痛 @bear784
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