第33話通院日とモダンジャズの夕べ

 街の小さなクリニックはたいてい静かなものだが、マルキパレスはいつも話し声が絶えない。せめてもう少し静かにしてもらえると助かるのだが、大きな病院というのはそういうものなのだろうか。

 ひとりでは足を運ぶことができないので、パートナーに仕事の都合をつけてもらって同行をお願いしているのが現状で、行き帰りにはタクシーを手配してもらっている。

 この日は体の不調も抱え、寒さに弱い身をスーピマコットン100%のインナーとユニクロのオフホワイトのメリノウールセーター、ネイビーのテーパードパンツ、それにコットンパールの二連のネックレスをつけて、ベージュのロングダウンコートを羽織り、革靴にローズピンクの持ち重りのするストールを巻いて出かけたのだった。

 パートナーからはストールを褒められてうれしかった。冬ざれの街では色味が消えてしまうから、色のきれいなストールを纏いたい。くすみの少ないビビッドなカラーは、パーソナルカラーがクリアウィンターの私には似合う。

 そうして、パートナーと受診前に別れて、話し声やら電話で話す声やらをよそに、パートナーに贈ってもらったAir Podsをつけて、受診前の待合室で宇多田ヒカルのエヴァンゲリオンの新劇場版の歴代主題歌と、Fly Me To The Moon(In Other Words)が入った自作のプレイリストを聴きながら、ぼんやりと順番を待っていた。

 待っている間にはいつも毎日新聞をiPhoneで読んでいる。この日はアメリカのNY市長選挙で民主党のゾーラン・マムダニ氏が、バージニア州でアビゲイル・スパンバーガー氏が当選したというニュースを新聞で読んで知った。

 被爆地出身の身としては、現米国大統領の核実験実施の指示は到底容認できるものではなかったため、このまま風向きが変わってくれることを切に願うばかりだ。アメリカが変われば世界も変わる。それはここ、日本も例外ではない。

 そうして順番を呼ばれて主治医と話をした。気がかりだった症状は一時的なもので、懸念していたものではなかったらしい。基礎疾患に関わることなので詳細は伏せる。

 かねてから書いてきたミルタザピンは現状維持という判断になった。主治医に服薬調整以上のものは求めないようにしているので、ひとまずこれで12月まで粘るしかない。

 39kgから41kgに増えたことの懸念は伝えたが、痩せているから大丈夫とのことだった。実際のところ、ここまで書いてきたように過食とはいっても一日の食事量は2〜3割増えている程度のことなので、しばらくは摂取カロリーなどに気を配りつつ過ごしたい。

 そうして帰宅すると、資料として集めはじめたものの一冊が届いた。あいにくと期待していたほど図版は載っていなかったが、情報量は多く、資料としての価値は十分にありそうで、しばらく寝かせておいて、まだ未着のものが届いてから合わせてじっくりと読みたい。

 それから病院の自販機で買った午後の紅茶のミルクティーを、マリメッコのウニッコシリーズのベビーピンクのマグに淹れてレンジで温めていただき、高校時代に初めてのジャズ入門として聴いて、今年になって中古で取り寄せたBlue Noteの名曲をセレクトしたコンピレーションアルバム“Mod Jazz From Blue Note”を聴いた。

 発売されたのは1972年で、今から50年以上前になる。私は1990年生まれなので、発売された頃の空気感を私は知らない。しかし収録されているジャズの名曲の数々は、シャープに尖ったかっこよさがあり、今のメロウな雰囲気を良しとする手垢にまみれたジャズのあり方とは全く違う。一番の有名どころだとMcCoy Tyner/African Villageが収録されており、私はここから彼の音楽に入って行ったのだった。

 ちなみにModというのは当時流行していたジャズ愛好者のヤンキーめいた若者たちを指す語だそうで、モッズコートは彼らが纏っていたコートに由来する。

 そうして文化の名残を今なおとどめていることが貴いと思う一方で、当時の空気感がこうして一枚のアルバムに濃縮されていることが美しい。

 映画などは如実にそうした芸術性を持つものとして、時に後世まで語られ、あるいは時代とともに消えていくが、音楽もまた優れたものは雄弁に時代を語るのだなと思わずにはいられない。

 芸術の豊かさを味わいつつ、疲れた身体を椅子に預けて、フェリシモのタルト型のベッドでまどろむ愛猫・冴ゆとともにモダンジャズの流れる夕べを過ごしたのだった。


Bill Evans&Jim Hall/Undercurrent

 

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