第31話無力さを噛み締めながら、それでもケアをつづけていく
ここのところ少し前に掲載したエッセイ、「ケアの時間を見つめ、その間の支えとなるもの」を書いてから読み返そうと思っていた、片柳弘史神父の『こころの深呼吸』を少しずつ読み返している。
そこで改めて思うのは自分という人間の弱さ、小ささで、振り返ってみれば、私は持病を押してブックライティングの仕事に勤しんできたこともあり、病の限界を超えて動けるものだ、と思ってきた。
しかし、基礎疾患がこの日一日でとことん悪化し、主治医にその急変を伝えなくてはならない、という症状が出てしまい、抑うつもいかんせん重い。朝11時まで一睡もできず、服薬して17時ごろまで眠ったものの、不調は自らの手で克服し難いものがあった。
少しでも癒されようと、Google Photoの写真を遡ろうかとも思ったが、コロナ禍以降の数年で実親との絶縁、義両親の離婚、と大きくネガティブな変化があり、見返すのもなかなかつらいし、おまけに下降線を辿るように、自分自身もだんだん外に出られなくなっていて、一年前の写真を見るだけでも「この時にはこんなこともできたのに……今の私ときたらなんて無力なのだろう」という思いに囚われてしまう。
一方、対人関係に目を向けると、友人が多忙のあまり余裕をなくしていて、少し刺々しいメッセージが送られてきたのを、相手の気持ちや余裕のなさを汲んで返信することがつづき、疲弊を感じてもいた。
しかし、自分自身の不調は薬でコントロールするしかすべがないし、友人の多忙さは私がケアできることではない。ここのところ悪化している愛猫の分離不安も、ケアはできる限りしているつもりだが、しかし動物のメンタルコントロールを十全に人間が行うのはほとんど不可能だ。
愛猫は二十四時間私といたいが、私は人間なのでどうしても眠らなくてはならない。愛猫が一匹にならざるを得ないシチュエーションはゼロにはできない。
そのように考えてみると、自分の力でコントロールできるものの少なさを改めて実感する。ここのところ朝方まで眠れず精神科医YouTuberの動画を観たりすることもあるが、特に某医師は病気をコントロールするための行動を強く勧めていて、今の私の病状でそれらを行うことはほとんど不可能に近い。
そもそも人間が完全に病を克服できる、あるいは他者に干渉して、その行動を変容させることができると考えること自体、おこがましいのだろう。私はもはや信じるべき神を持たないが、ルーツの一部として流れを汲むカトリック系の本を読むと、背筋をただされる思いになる。
私にできることはせいぜい環境調整だけで、この日は深夜2時近くに愛猫と自分自身のケアを兼ねてリビングに戻り、愛猫は空腹で鳴くのでおやつと餌を出して、その後餌皿を洗った。
自分用には届いたばかりのFAUCHONのバターナイフでバナナをスライスしてヴィンテージのガラス器に盛り、ストロベリーヨーグルトを同シリーズのスプーンでいただきながら、ルイボスティーを淹れてSpodeのBlue Itarianのティーカップ&ソーサーで飲んだ。
愛猫の頬を撫でて声をかけ、少し落ち着いたところでリビングをあとにし、部屋に戻って換気と部屋の加湿、そして洗面台の掃除をした。
私にできることは極端に限られている。現に食洗機を回しておく余裕は残されていなかったし、茶器はガラス器のみしか洗えなかった。
そうした自分の無力さと、同時に環境調整を行なって愛猫と自分自身を少しでも整えられたという、わずかばかりの自己効力感が生まれたので、困難な夜の友とすべく、このエッセイを書いておきたいと思ったのだった。
今、さまざまな家庭の事情や、いろいろな対人関係の中でケアを担っておられる方も多いと思う。そうした人々に心からエールを送りつつ、どこかでできることとできないことの見極めをすることが、ケアをつづけていく上で、ひとつのポイントになるのかもしれないと思ったので、こうして文章に書き留めておくことにする。
Les Choristes OST
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