第26話ケアの時間を見つめ、その間の支えとなるもの
何も書くつもりはなかったのだが、短文だけを書いていると気分がどんどん沈んでしまうので、とにかく書くしかないだろうと思って、BluetoothキーボードをiPadに接続して書きはじめることにする。
ミルタザピンを飲みはじめて2週間が経った。この間、体の不調にも見舞われ、薬の副作用で食欲が増したものの、脆弱な胃腸がそれについていけず、胃痛に見舞われたりしてなかなか日記を書くに書けずにいた。
実際にはこの間にも日記を書いてはいたものの、表向きに書ける状態ではなかった。何本かの日記やエッセイを非公開にすることは心苦しかったが、それも仕方がない。何を書いて何を公開とするかの判断は常に迫られている。それは書くことに伴う一つの責任だと私は思っている。
不調を抱えながらも常に何かを書いてきたが、書けなくなった云々ではなく、この判断が正常に働かなくなったら、書き手としては潮時なのだろうと思う。自己検閲と言ってしまえばそれまでだが、それはいくらか厳しい方がいいと私は思っている。
その上で何を書くかということを考えた時に、ケアの問題について捉えてみたいと思う。
私はパートナーと愛猫・冴ゆのケアを1日4〜6時間行っている。時にはケアが朝方4時ごろに差し掛かることもあるし、その間も家事をこなしたり、分離不安の冴ゆの夜鳴きをなだめたりしている。
30代の平均的な夫婦二人暮らしにおけるケアの時間は3時間にも満たないらしい。これはCopilot AIに聞いた数値なので、正確かどうかは留意が必要だが、自分自身が日々どれぐらいケア労働に時間を割いているのか、それが平均と比べてどうなのかということは、これまであまり関心がなかったので調べてこなかったのだった。
そのケアを担うことを疑問視してこなかったというのも大きいが、ここのところ持病もあって、疲れを感じることが増えてきて、そのたびに自分を責めてしまうようになってしまったので、今一度ここで客観的に把握してみようと思い立ったのだった。
自分自身は複数の精神疾患を抱えながら家族をケアしているが、そこに対して疑問はあまり抱いていない。
私自身は奉仕を苦にしづらい人間なのだろうと思う。現に当時生後2ヶ月だった、保護猫出身の冴ゆを迎えてからのこの3年間は、ただ必死に家族のケアをしてきた。
それは私が後天的に身につけた生き方でもある。私は聖職者には遠く及ぶべくもないし、あらゆる宗教の信徒でもないが、補助職ポジションだなと自分のことを見定めてからはずいぶんと気持ちが楽になった。
人から見ればそれは古い価値観に縛られた哀れな人間でしかないのかもしれない。しかしそうした奉仕を前提として家庭が回っているのであれば、それに越したことはないと思う。
自分らしい生き方だとか、自己実現だとかが問われるようになって久しいが、私個人はそれで幸せにはなれなかったのだろう。
肩で風を切って前を歩くのが向いている人もいれば、後衛ポジションで人を支えるジョブが向いている人もいる。私は後者だったというだけのことで、前者のポジションに就きたいとは今は考えていない。
障害者として社会的に抑圧されている、という見方は一面では妥当なのだろう。あなたは搾取されているのだ、と非難する向きもあるのかもしれない。しかし、私がケア労働を無碍にしてもっぱら文章ばかりを書いていては家庭がうまく機能しない。
ケアは家庭を営む上では必要不可欠で、そのバランスの是非について考える余地はあるのかもしれないが、現状維持で私自身が疑問を抱いていないのであれば、余人から見てそれが偏りのある、歪な形であったとしても、私はそれを受け入れようと思う。
こうした考えがフェミニズムと相反するものであることは言を俟たないが、私はフェミニズムとは距離を置いている人間で、なおかつノンバイナリーなので、そのような観点から指摘をされる謂れはない。
ただし私自身の価値観を他の人に押し付けようという考えは一切ないし、自分自身の責任としてケア労働に日々勤しむことを、他者にも勧めたいわけではない。
ケアの営みを言葉にするにあたって、どうしても構えなくてはならないところがあり、自分自身の思想の限界性もまた提示しなくてはならないと思う。そうした意味でこのエッセイはそれらを如実に反映したつもりでいる。
2025年10月25日、私は愛猫のケアを一手に引き受けて家事をこなし、パートナーのケアもして、26日午前2時前に部屋に戻ってこの文章の続きを書いている。さすがに疲れが出てきた、と思う反面で、私の胸のうちにミッションスクール時代の標語が心に響く。
「マリア様、嫌なことは私が喜んで」
というもので、信徒でもなく、志望校に落ちて滑り止めで受かって転がり込んだミッションスクールのこの言葉は私の心に負の刻印として残っていたのだが、思い起こしてみると、ギリギリな状態な時にも支えてくれたのはこの言葉だったようにも思う。
もう一度個人的に聖書を学んでみようか、と思い立ったところで、私の胸のうちに片柳弘史神父の本や、渡辺和子シスターの本の書影が立ち昇る。ふたたび触れてみようか、カトリックの書物たちの世界に──。
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