第5章:私が選んだ人
朝起きて、鏡を見たとき、知らない顔がそこにあった。
目の下にはくま。
唇の端が少しだけ、かすれている。
疲れてる、と自分でも思った。
昨夜、ほとんど眠れなかった。
ベッドに横になって、目を閉じても、
まぶたの裏には千隼の笑顔が浮かんでは消え、
そしてその後ろから、悠真の背中がゆっくりと追いかけてくるような夢ばかり見た。
気づけば、どちらを想っているのか、自分でもわからなくなっていた。
⸻
その日、仕事中に何度もスマホを見た。
千隼から、昨日の会話の続きが来るかもしれないと思って。
けれど、通知はなかった。
既読にもなっていない。
代わりに、悠真から「夕飯いらない」の一文だけが届いていた。
その素っ気なさに、私は妙な安堵を覚えた。
優しくもないし、愛情の言葉があるわけでもないのに、
その“変わらなさ”が、なぜか今は、少しだけ心を落ち着かせた。
⸻
夜、家に帰って、一人で食事を済ませたあと、
キッチンで手を止めた。
シンクに、私が使ったグラスが一つ。
数日前、悠真が買ってきた果物が、そのまま冷蔵庫に残っている。
あのとき、私が「いちごが好き」と何気なく言っただけで、
彼は仕事帰りにそれを買ってきた。
そのときは、「気まぐれかな」と思った。
でも、いま思えば――
彼はいつも、私の“ひとこと”を覚えている人だった。
⸻
ソファに座り、ゆっくり目を閉じる。
千隼といた大学時代。
彼と茜と3人で笑っていた春の午後。
あれは確かに、まぶしい時間だった。
でも――それは、過去だ。
そこに戻りたいのかと問われたら、
私は……自信を持ってうなずけなかった。
⸻
寝室のドアを開けると、悠真がもう帰ってきていた。
ネクタイを外して、ベッドに腰かけ、何か書類を見ていた。
私の足音に気づき、少しだけ目を上げる。
「おかえり」
それだけ。
たった一言だけの、変わらない挨拶。
でも、今の私には、それがどこか、やさしいと感じた。
⸻
私は、勇気を出して声をかけた。
「ねえ、ちょっと話、してもいい?」
悠真は書類を閉じ、私に向き直る。
その瞳はいつも通り、静かで深いまま。
私は言った。
「私、大学のとき……好きな人がいた。たぶん、ずっと、心の奥に残ってた」
「……うん」
「昨日、その人に再会して……“ずっと気になってた”って、言われた」
悠真の目がわずかに揺れる。
でも、彼は黙って、私の話を遮らなかった。
「すごく……心が揺れた。もしあのとき、想いを伝えてたらって、
“もし”ばかりが頭をよぎった。
でもね、思い出すの。あなたが、おかゆを作ってくれた日とか、
朝、黙ってコーヒーをいれてくれてたこととか」
私の声が、少しずつ震えてくる。
「私は……好きじゃなかったはずのあなたと、
いまこうして暮らしていて、
それがいつのまにか、“心地いい”って感じるようになってて――
そのことが、どうしてかすごく、愛おしく思えて」
手が、膝の上で強く握られている。
泣かないようにと思っていたのに、頬を伝う雫を止められなかった。
「……私は、あなたを選びたい」
「いまじゃなくて、未来を、あなたと選びたい。
恋愛の始まりじゃなくて、“暮らしていくうちに好きになっていく”
そんな恋を……私は、あなたと続けていきたい」
⸻
言い終えたあと、私は、彼の返事を怖れて目を閉じた。
しばらくして、そっと温かいものが、私の手に触れる。
悠真の手が、私の手を握っていた。
ゆっくりと、丁寧に、ほどけてしまいそうなほど優しく。
「……ありがとう」
彼がぽつりと呟いたその声に、かすかに震えが混じっていた。
「俺、ずっとお前に言いたかったんだ」
「最初から好きになってもらえなくてもいい。
お前の隣にいて、少しずつでも、振り向いてくれたらって……
それだけで、十分だった」
私は、彼の胸に顔をうずめた。
涙が止まらなかった。
過去に向いていた心が、いまようやく、ここに還ってきた。
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