第3章:あなたを知る時間

 その日、私は久しぶりにひどい風邪をひいた。


 朝から頭がぼんやりしていたけれど、なんとか出社して、無理に仕事をこなした。

 けれど昼を過ぎたころには吐き気と悪寒が襲い、上司に顔を覗き込まれて「早退しなさい」と言われた。

 電車の揺れがやけに遠く感じられ、身体の熱と外の冷たさの区別もつかないまま、私は自宅にたどり着いた。


 ふらふらと靴を脱ぎ、リビングのソファに倒れ込む。

 部屋の空気は冷え切っていて、カーテンから差し込む夕陽がぼやけて見えた。

 「……さむい……」

 声にならない声を漏らしながら、私はただ、眠るように目を閉じた。



 目を覚ましたとき、部屋の灯りがついていた。

 ゆっくり頭を上げると、ダイニングテーブルの上に、湯気を立てるおかゆが置かれていた。


 驚いて横を向くと、キッチンに背を向けて立つ悠真の姿があった。

 白いシャツの袖をまくり、慣れない手つきで鍋をかき混ぜている。


 「……いつ帰ってきたの」

 掠れた声に、悠真が少しだけ振り返る。

 「さっき。電話出なかったから、嫌な予感して」

 「うん……ごめん、気づかなかった」

 「別にいいよ。高熱だろ、たぶん。今、冷えピタ探してる」


 淡々とした口調。でも、その言葉の裏にある“気づかい”が、

 ふいに胸に刺さるように伝わってきた。



 おかゆをひと口食べると、ほんのり塩味がした。

 決して上手じゃない。でも、あたたかかった。


 「これ、作ったの……?」

 「うん。レシピ見ながら、なんとか」

 「……おいしい」

 「ほんとに? 味見してないからさ」

 「ほんと。今まで食べたなかで、いちばん……うれしい味」


 言った瞬間、涙が出そうになった。

 誰かが自分のために、台所に立ってくれた。

 それだけで、胸の中にあった氷みたいなものが、じわじわと溶けていく気がした。



 その夜、私はソファに毛布をかけて横になっていた。

 ベッドに移動する体力もなく、かといって起こすほどでもないと思っていた。


 けれど数分後、ふわりとあたたかい毛布が、もう一枚かけられた。

 それと同時に、そっと額に触れる冷たい手。


 「……熱、下がってきたな」


 私が目を開けると、悠真が驚いたように視線を逸らした。

 「ごめん、起こした」

 「ううん……ありがとう」

 「寝てな。俺、リビングのソファで寝るから」


 背中を向けて歩き出そうとした彼を、思わず呼び止めた。

 「……今日、いてくれてよかった」

 足を止めた彼の背中が、少しだけ揺れた気がした。

 「……おやすみ」

 彼はそれだけ言って、リビングへと去っていった。



 その夜は、久しぶりに深く眠れた。



 翌朝、目が覚めると、キッチンにコーヒーの香りが立ちこめていた。

 食卓にはトーストと、半熟の目玉焼きが一つずつ置かれていた。


 「悠真……これ」

 「簡単なやつだけど。……ちょっとでも食べろ」


 ぶっきらぼうな言い方。

 でも、それが彼のやさしさなのだと、私はようやくわかり始めていた。



 それからの日々、私は少しずつ、彼の中に“人間らしさ”を見つけていった。


 ・靴が濡れて帰ってきた日、玄関にタオルを敷いておいてくれたこと

 ・雨の日は、何も言わずに傘をもう一本差し出してくれること

 ・私がうっかり冷蔵庫のプリンを倒したとき、何も責めずに黙って拭いてくれたこと


 彼は言葉で示す人ではない。

 でも、行動でそっと手を差し伸べる人だった。



 私はずっと、「好きじゃない人」と思い込んでいた。

 でも、それは知らなかっただけ。

 何も見ようとせず、最初から“好きじゃない”と決めつけて、

 彼という人を、知ろうともしなかった自分のせいだったのかもしれない。


 ゆっくりと、でも確実に――

 心のなかに、小さな“芽”が生まれ始めていた。

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