第2章:好きじゃなかった結婚
婚姻届に押した印鑑の感触が、やけに乾いていた。
役所の窓口で書類を提出しながら、私は「これで本当に結婚したのか」と、自分の手元ばかりを見つめていた。
横に立つ**高良 悠真(たから ゆうま)**は、特に表情も変えず、淡々と手続きを済ませていた。
白いワイシャツの袖から覗く腕時計を何度か見ていたけれど、それが早く帰りたいからなのか、会議があるからなのか、私にはわからなかった。
「じゃ、今日はこれで」
そう言って、悠真は深く礼をしてから、仕事へ戻っていった。
私は一人で、市役所前のベンチに腰を下ろした。
春の風が、強すぎるほどに髪を揺らす。
愛の言葉も、指輪の交換も、写真もなかった。
形式だけの結婚。
お互いの両親が間に入り、何度か食事を重ねたあと、静かに決まった話だった。
「好きでも嫌いでもない相手と結婚するって、どんな感じなんだろうね」
友人に冗談混じりで話したら、
「逆に、そこから始まる恋もあるんじゃない?」
そう言われたけれど、私はその言葉を、ずっと遠くに感じていた。
⸻
引っ越したばかりのマンションには、余計なものが一つもなかった。
木目のシンプルな家具、白い壁紙、無機質なキッチン。
“生活”というより、“整頓された空間”だった。
「この部屋、ホテルみたいですね」
思わずつぶやいた私に、悠真は「うん」とだけ返した。
その言葉に感情は乗っていなかった。
食事は、基本的に別々だった。
私が遅く帰れば彼は既に食べ終わっていて、
早く帰れば、キッチンにラップされたごはんが置いてある。
最低限の気遣いはある。
でも、そこに「温度」がない。
会話は天気か、光熱費の話ばかり。
一緒にいても、言葉よりも沈黙のほうが多かった。
⸻
そんなある晩、私はなんとなく、夕飯の席で聞いてみた。
「……ねえ、なんで私と結婚したの?」
悠真は少しだけ箸の動きを止めた。
顔を上げることなく、静かに答えた。
「親に言われたから、って言えば、怒る?」
「……怒りはしないけど、正直すぎて傷つく」
「でも、嘘はつけないから」
それきり会話は止まり、食器の音だけが部屋に響いた。
私は、箸を置いて言った。
「私ね、大学の頃、好きな人がいたの。叶わなかったけど。
いまでも、ふと思い出すことがあるんだよね」
悠真は驚いたようにこちらを見た。
でも何も言わなかった。ただ、黙ってコップの水を飲み干しただけだった。
⸻
眠れない夜が増えた。
ベッドを並べたはずなのに、どこか遠くに感じる。
物理的な距離ではなく、心の温度が遠かった。
「このまま、何十年一緒にいるのかな」
不意にそんな想像をしてしまい、胸が冷えた。
隣にいるのに、孤独だった。
私は、結婚して“誰かのもの”になったのではなく、
ただ「選択肢を失った」だけだったのかもしれない。
⸻
それでも、少しずつ日々は過ぎていった。
食器が二人分あることにも、鍵が二つあることにも慣れてきた。
たまに目が合っても、何も言わずにすれ違う。
好きじゃなかった人と始めた生活。
けれど私はまだ知らなかった。
この静かな日常の中に、ほんの少しずつ、
私の気づかない“優しさ”が紛れていたことを。
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