きみに恋をしなおす

稲佐オサム

第1章:終わらなかった初恋

 大学のキャンパスに春の匂いが戻ってきたある日、私は図書館の窓際で、誰かを目で追っていた。

 白いシャツに、少しだけ着崩したネクタイ。

 何気なく笑って、誰にでも優しく接するその人の姿が、私の中でゆっくりと、確かな形になっていくのがわかった。


 千隼(ちはや)くん。


 彼は、ゼミの同期で、私の親友・茜と特に仲が良かった。いつも2人でふざけ合っていて、自然に私もその輪にいた。

 気さくで人当たりが良くて、でも軽すぎない。

 いわゆる「モテる人」だったけど、それを鼻にかけないところが、余計にずるかった。


 「綾乃、聞いてる?」

 茜の声で我に返る。

 「……ごめん、ちょっと考えごと」

 「また千隼のこと見てたでしょ」

 からかうように笑って、茜は紙コップのカフェオレを差し出してくれる。

 「わかりやすいよ、あんた」

 「見てないよ、別に」

 嘘をついた。見てたのに。


 茜は知っている。私が千隼に片想いしていることを。

 でも茜は、そのことに触れようとしない。ただそっと、いつも通りの空気を保ってくれる。


 そして私は、ずっと気づいていた。

 千隼が、茜にだけ見せる“特別”な笑顔を。

 それを見てしまうたび、心がちくりと痛んだ。

 彼を好きになったのは、茜の隣で笑うその優しさだったのに――

 自分の好きが、自分を一番苦しめる皮肉。


 春が過ぎ、夏が過ぎても、その気持ちは消えなかった。

 でも私は告白しなかった。できなかった。

 伝えることで、何かが壊れてしまうのが怖かった。


 彼と茜の間に入っていく勇気もなかったし、

 もし仮に、うまくいったとしても――

 「綾乃が茜を裏切った」

 そんなふうに言われる未来が、何より耐えられなかった。


 誰も悪くないのに、好きになることさえ許されない。

 そんな片想いを、私は四年間、静かに抱えたまま卒業した。



 就職して、東京に出てからは、彼らとの連絡もほとんど取らなくなった。

 新しい職場、新しい同僚、毎日の業務に追われる生活。


 でもふとした瞬間――たとえば電車の窓に映った自分の顔とか、

 スマホの音楽で偶然流れた懐かしい曲とか――

 そんなときに、胸の奥からそっと湧き上がってくるのは、

 あの頃の想いと、名前を呼べなかった感情だった。


 いまも、まだ終わっていないのかもしれない。


 それに気づいたのは、親から突然持ち込まれた見合い話を聞いた日の夜だった。

 「もう、そんな歳になったのかもね」

 呟くように、ひとりごちた。

 千隼のことを、いつまでも心に残しておく理由が、もう見つけられなかった。


 だから私は、見合い話にうなずいた。

 「好きじゃないけど、嫌いでもない人」と結婚して、

 心に張りついた青春の残骸を、少しずつ水に流していこうと思ったのだ。


 ――でも、このときの私はまだ知らなかった。

 その結婚が、私の“新しい恋”になるなんてこと、想像すらしていなかった。

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