空を飛びたいあなたへ贈る手順書 ※悪用厳禁
坩堝 ®︎utsubo
自己啓発系セミナーへの参加特典として配布された資料より
1783年、フランスのモンゴルフィエ兄弟が、熱気球を用いて初の有人飛行を実現しました。
人類は初めて地上を離れ、空へと旅立つという夢に一歩近づいたのです。
約120年後、ライト兄弟がエンジンの力を用いた動力飛行に成功し、現代航空時代の幕が開けました。
さらに100年経った現在、500人を載せた大型旅客機が私たちの住む街の遥か上空を飛び交っています。
両手に小型エンジンを装着して飛行するジェットスーツや、大坂万博にて公開が予定される空飛ぶ車などといった新たな飛行技術研究も着実に進められており、これらが一般化される日も遠くないのかもしれません。
しかし、いかなる技術の進歩があっても、生身での飛行を成し遂げた者はいません。
人間には翼がない、翅がない。
神は私たちに、飛ぶための器官を授けてはくれませんでした。
幼い頃に見た、蝉の羽化。
小さな容器に収まる艶やかな塊。
中心に亀裂が入り、次第にしわくちゃの布が姿を表す。
白い命が徐々に赤みを帯び、羽を瞬かせる。
何時間も、何時間も畳に腹をつけ、その経過を眺めていました。
真っ黒な瞳で出口を見据えた蝉は、生に感謝をするように一鳴きし、私の前から去っていきました。
私は自由を見つけました。
同時に私は、三次元に広がるこの世界に地に足を固着させて生きている今が、とても狭苦しく感じたのです。
空を飛びたい。
子供ながらに私は、色々なことを試してみました。
鳥や昆虫の体の構造を調べたり、塀の上から飛び降りたり、腕を翼のように平たく伸ばすことはできないものかと扉に腕を挟んで潰しかけたり。
しかし、どれも無駄なことでした。
初めて人類が空へ足を踏み入れてから200年以上。
未知の領域に、ただの子どもが辿り着けるはずもありませんでした。
ある日、夢を見ました。オムライスをたらふく食べる夢です。
ある日、夢を見ました。高校時代の後悔をやり直す夢です。
ある日、夢を見ました。深海を旅する夢です。
ある日、夢を見ました。空を飛ぶ夢です。
私は気付きました。
この世界で空を飛ぶことは非常に困難だけれども、世界が違えば夢を叶えることができるのではないかと。
私たちが見ている世界は、脳が映し出す虚像にすぎません。
世の中には色覚異常という病気を持つ方々がいます。
彼らの目には、大勢が見ている(とされる)色とは異なる色が映ります。
しかし彼らにとって、その見え方こそが「正常」であり、「正しい世界」なのです。
私たちが何を現実として捉えるかは、脳の認識に依存しています。
目に見えるものだけでなく、五感全てが電気信号に変換され脳へと伝わります。
脳は外部から受け取った情報をもとに現実を構築し、私たちに「これが世界だ」と認識させているのです。
つまり、脳に望みの世界を見せれば、空を飛ぶ夢を叶えることができるかもしれない。
だから私は、私だけの世界を作りました。
私だけが知覚できる世界。
私はそれを「内殿」と呼んでいます。
対して、日々の生活を送り、他人と時間を共有するこの世界を「外殿」と呼びます。
今からお話しするのは、内殿に入るための方法、そして内殿で自由に空を飛ぶための手順です。
ただし、勘違いしてはいけません。
そこは「全てが思い通りになる世界」ではありません。
潜在的に「できない」「してはいけない」と感じていることは、内殿おいても行うことはできません。
人の行動や思考を操作すること、人を殺すこと、死んだ人を蘇らせること、死ぬこと、生き返ること。
そこはたしかに、私の世界です。
けれど私は、世界の住人の1人にすぎません。
私は決して、神ではないのです。
始める前に、リラックスできる空間を見つけましょう。
リビングのソファ、ベッドの下、湯船の中、あるいは車のトランク。
自分が一番落ち着ける場所であれば、どこでもかまいません。
そこで、深く呼吸してみてください。
鼻からゆっくりと息を吸い込み、口から静かに吐き出します。
呼吸が、少しずつあなたを内側へと導いてくれます。
目を閉じて、深呼吸を繰り返しながら、あなたの住む家を思い浮かべてください。
まずは、家の外観です。
家の形や色、周囲の風景、玄関前に広がる庭や道路の様子まで、できるだけ細かく描写していきましょう。
次に想像するのは、あなたの家の入口の扉です。
開き戸でしょうか、それとも引き戸でしょうか。
右に開きますか、左に開きますか。
材質は木製でしょうか、金属でしょうか。
色は何色でしょうか。
ドアノブの形や手触りも思い描いてください。
冷たさや重さ、指先に伝わる感触まで意識してみましょう。
そして、扉の前に立つ自分自身を想像します。
だれかがあなたを後方から見下ろしているかのように、姿を思い描いてください。
TPSゲームのキャラクターを操作するときを思い出すとわかりやすいでしょう。
あなたのかかとから、ふくらはぎ、臀部、背中、後頭部までを、すべて映します。
どんな服を着ているのか、髪型や姿勢まで詳細に想像します。
この自分自身の姿、それがあなたの器となります。
姿がはっきりとしてきたら、次は視点を器の中へと移してください。
あなたは今、あなた自身としてその場に立っています。
目の前には扉、それが内殿への入口です。
入口を認識したら、ゆっくりと目を開きます。
そこはどこですか?
きっと、目を閉じる前と変わらない景色が見えることでしょう。
しかし、確実にあなたの中には扉が存在し始めているはずです。
まだあなたは、内殿の入口の前に立っただけにすぎません。
何度も何度も繰り返してください。
時間や場所は問いません。
寝る前でも構いません。
繰り返すことが大切です。
するとあるとき、目を開けるとそこには目を閉じていたときと同じ景色が見えることでしょう。
そうしてあなたは、ようやく新しい世界への一歩を踏み出すことができるのです。
世界はあなたを受け入れました。
ノブに手を掛け、中へと入ります。
そこはすでにあなたの世界です。
玄関に入ったら、いつも通り靴を脱いで家の中へと足を進めてください。
そして家の中を一通り回ってください。
全ての部屋を確認します。
リビング、寝室、トイレ、風呂。
全ての扉を開けて中へ入ってください。
そして、普段過ごす家と何一つ変わりがないことを確かめてください。
もしひとつでも違いを見つけたら、玄関へ戻ります。
扉を3回ノックし、再び振り返ります。
そして、再び家の中を確認します。
何もかもが、いつもとまったく同じになるまで繰り返してください。
相違がなくなれば、世界は安定します。
しかし、外殿との相違が無くなった家の中では、あなたは混乱してしまうかもしれません。
今自分がどの世界にいるのか、見失ってしまうのです。
この問題を防ぐためには、内殿に目印をつけることが有効です。
外殿と内殿の間に、あえてひとつ、確実な相違点を設けるのです。
その目印とは、「人」です。
外殿に存在しない、内殿にしかいない人物。
たとえば──
胸にかかるほどの真っすぐな黒髪を持つ、17歳ほどの少女。
背丈は160cmくらいで、少し目じりの下がった一重瞼。
鼻筋の通った、唇の薄い女の子です。
記憶にある誰かの顔を思い浮かべてしまわないように、見たことはないけれど、どこか懐かしさを感じる顔を思い浮かべてください。
彼女は、内殿における目印です。
リビングに座っていることもあれば、キッチンで料理をしていることもあります。
あるいは、風呂に佇む姿を見かけるかもしれません。
あなたが内殿に入るたび、彼女は静かにそこにいます。
時が経っても成長せず、変わらぬ姿を保ち続けます。
それがあなたにとって、ここが内殿であるという何よりの証となるのです。
世界ができました。
世界へ入り込むことができました。
外殿と内殿を、はっきりと見分けられるようになりました。
あとは空を飛ぶだけです。
準備は外殿で行います。
何度も家の扉を想像したように、念じてください。
「私は空を飛ぶ」
「私は空を飛ぶ」
「私は空を飛ぶ」
家でも、職場でも、学校でも。
歩いているときも、食事の最中も、寝ているときも。
常に、強く念じてください。
いつものように内殿へ足を踏み入れたその瞬間、ふと気が付くでしょう。
自分の足が、地面から離れていることに。
最初は驚くかもしれません。
歩こうとしても、足は宙を掻く。
けれど、その感覚にはすぐに慣れます。
前へ進みたいと念じてください。
まるで、見えない力があなたを押し出すかのように、あなたの身体は、静かに前へ進み始めるはずです。
高く飛びたいと思えば、より高く昇っていくことができます。
地面に降りたいと思えば、ゆっくりと降下していきます。
着地のときも、ふわりと足が地につきます。
衝撃はありません。
あなたは、窓を開けて外へ出ることができます。
そこには、見慣れた景色が広がっています。
けれど、それは見慣れないアングルから見る世界です。
あなたは、空を飛ぶことができたのです。
高いビルの屋上から飛び立つこともできます。
雲の上に到達することもできます。
飛びながら眠る鳥の寝顔を、間近で見ることさえできます。
あなたの世界で、あなたは空を飛ぶことができます。
私の世界で、私は空を飛ぶことができます。
それはあなたにとっての、私にとっての現実なのです。
忘れてはいけないことがあります。
外殿も、内殿も、どちらもあなたの現実です。
けれど外殿では、空を飛ぶことはできません。
決して、外殿で空を飛ぼうとしてはいけません。
ベランダで空を見上げてはいけません。
高い場所に立ってはいけません。
空を飛べると信じて、宙に足を踏み出してはいけません。
彼女は家の中にいません。
リビングにも、寝室にも、トイレにも、風呂にも彼女はいません。
※悪用は厳禁でお願いします。
空を飛びたいあなたへ贈る手順書 ※悪用厳禁 坩堝 ®︎utsubo @rutsubo_Enho
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