第19話 擬態して、5年でようやく“スタートライン”――でも、それで結婚できたからOK
大学の研究室と、あるメーカーには、昔から深いつながりがあった。母が長年使っていた製品が、その会社のものだったから、私は子どものころからそのロゴに親しみがあった。
学生時代、その製品を扱う研究に関わるうちに、私は心の中でうすうす思っていた。
「たぶん、私はこの会社に入るんだろうな」と。
――とはいえ、普通に就職できるほど器用な人間ではなかった。
いじめてきた研究室とは、他の先輩に頭を下げ、トップに泣きつき、どうにか“ねじ込んでもらった”。
就活も一応はしていたし、ほかの会社の営業職の内定もあった。でも、心はもう擦り切れていて、他に行く元気なんてなかった。
擬態スキルで会社員にはなったけれど、そんなわけで始まった会社員生活。私は、極めて不器用だった。
道を選んだら変えられない頑固さ、「最後までやらないといけない」という妙な正義感。小学生が書いたようなメールの文面。
それが私を何度も苦しめ、でもときどき助けてもくれた。
会社に入って5年。当時はまだ診断されていなかったけれど、アラサーの私はすでに「なんとなく普通の人」に擬態するスキルだけは身につけていた。
空気もある程度は読めたし、人の気持ちも“まあまあ”察せていた(つもりだった)。
少し鈍くさくて、テンポが独特で、会話にワンテンポ遅れが出る。
でも「個性の範囲だよ」と言ってくれる人もいた。
就活でも、他社からも内定がもらえる程度には、擬態スキルは育っていた。
中身が伴わない「ちゃんとした人」
服装は「ちゃんとしてる風」、相槌は「ちょうどいい感じ」、笑顔は「バレない程度にズレてる」。
でも、仕事の中身がまったく追いついていなかった。
段取り、スピード感、マルチタスク、報連相――。
社会で“当たり前”の動作が、私にはどれも難しかった。
“時間がかかる人間”を、社会は待ってくれない。
5年がむしゃらに働いて、ようやく「新入社員のスタートライン」に立てた気がした。
でもその頃、同期はすでにプロジェクトを任され、後輩を育て、マネジメントしていた。
私はというと、いつまでも「できない子」枠で、単純作業ばかり回ってきた。
そこから学ぶチャンスもないまま、ただ時間が過ぎていった。
転職できない呪いと、どもりの壁
「転職したら?」と何度も言われた。
でも、自閉っぽい人間にとって、それが一番の地獄だった。
新しい職場でまた「とっつきにくい人」扱いからスタートして、数年かけてようやく“普通枠”に戻る。
その無限ループを想像しただけで、心が折れた。
しかも私は、どもりがある。
テンポよく会話する仕事には、圧倒的に不利だった。
既婚、20代後半、子どもも欲しいかも――そんな微妙な立場の女が、転職市場で歓迎されるわけがない。
しかも、発達障害の診断までついてきたら……「居場所」なんて、どこにもない。
大学院まで出て、ようやく得た「正社員」という肩書き。
福利厚生もある、ありがたい会社。
鬱になっても、辞められなかった。続けられた。
――でも、結果オーライだった。
この会社で、私はひとりの男性と出会う。
ちょっとしたやりとりを積み重ね、私は彼と結婚することになる。
「仕事が辛すぎても辞められなかった女」と、「辞めなかったおかげで夫に出会えた女」。
どちらも、私だ。
今、優しい夫と、ふたりの子どもに囲まれて暮らしている。
あの頃の私にかけたい言葉
当時の私に、ひと言だけかけるなら。
「5年かけて“最低限”? ……まあ、でも、結婚できたじゃん」って。
擬態でつないだその5年は、たしかにしんどかった。
でも、その果てに、“今の私”がいる。
なにかが大きく報われたわけじゃない。
劇的な成功を収めた話でもない。
ただ、「どうにか耐えて、ちゃんと今がある」。
それだけのことが、私にはけっこうな奇跡だったりする。
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