TSメスネコ転生、こんニャのあんまりだぁ!

秋坂綾斗

第1章:失われた性と、与えられた居場所

第1話:俺が猫で、ここは地獄

 ## 第1話:俺が猫で、ここは地獄


 鼻を突く、ツンとした消毒液の匂いで目が覚めた。

 それから、むせ返るような獣の匂い。アンモニアが混じったような、不快な熱気が空気に淀んでいる。なんだここ。俺のマンションの部屋は、確か無香料の消臭剤で統一していたはずだが。そもそも、昨日は飲み会で、終電間際にふらふらになりながら帰ったはずだ。二日酔いか? それにしちゃ、頭痛よりも嗅覚へのダイレクトアタックが酷すぎる。


 重いまぶたをこじ開けようとして、俺は自分の体に起きた最初の異変に気づいた。

 視界が、おかしい。

 ぼやけた視界に映るのは、天井……じゃない。無機質な灰色のコンクリートの天井と、それを無骨に横切る鉄格子。俺は、檻の中にいるのか? 誘拐でもされたか? いや、昨今の日本で、俺みたいな冴えない三十代のサラリーマンを誘拐するメリットがどこにある。


「……っ、う」


 声を出そうとした喉から漏れたのは、情けない呻き声だけだった。体を起こそうと力を入れる。ずしり、とコンクリートの冷たさが全身に伝わった。どうやら俺は、服も着ずに床に直接寝かされていたらしい。非人道的なにもほどがある。


 混乱する頭で、のろのろと体を起こす。その瞬間、二つ目の、そして決定的な異変が俺を襲った。

 視界が、低い。

 ありえないくらい低い。床に座っているにしても、これはまるで赤ん坊の視点だ。いや、それ以下か。周囲を見渡すと、俺がいるのと同じような鉄格子の檻が、いくつも壁際に並んでいるのが見えた。薄暗い照明が照らし出すその光景は、まるで刑務所か、あるいは……動物の収容施設。


 そんな馬鹿な。


 俺は自分の手を見た。

 自分の、手だったはずのものを。

 そこに在ったのは、見慣れた、キーボードを叩きすぎて少し節くれだった俺の手じゃない。

 艶やかな黒い毛に覆われた、しなやかな脚。その先端には、桜色の小さな肉球が備わった、可愛らしい<手>。


「……………………は?」


 思考が停止する。

 なんだこれ。手の込んだドッキリか? VRか何かか?

 必死に腕を動かそうとすると、その黒い毛玉みたいな前足が、俺の意思通りに器用に動いた。嘘だろ。嘘だと言ってくれ。

 パニックに陥った俺は、叫ぼうとした。状況を説明しろと、誰でもいいから問い詰めたかった。


「にゃあ!」


 喉から飛び出したのは、甲高い、子猫のような鳴き声だった。

 自分の声じゃない。

 まったく知らない、可憐で、そして絶望的な響き。


 俺はもう一度、自分の<手>を見た。それから、そろりと自分の腹に視線を落とす。滑らかな黒い毛皮が続いている。脚もそうだ。なんなら、後ろの方にひょろりと伸びた尻尾まである。

 全身の血の気が引いていくのが分かった。いや、この体に血が通っているのかすら怪しいが。


 記憶をたどる。

 そうだ、昨日の夜。取引先との会食を終え、いい気分で酔っ払って、駅からの帰り道を千鳥足で歩いていた。横断歩道、信号は……確か、点滅していた気がする。急がなきゃ、と足早になった瞬間、けたたましいクラクションと、視界を白く焼き尽くすヘッドライトの光。そして、全身を砕くような、凄まじい衝撃。


 ……ああ、そうか。

 俺は、死んだのか。

 トラックにでも撥ねられて、あっけなく。三十数年の人生の幕切れは、実にあっけないものだったらしい。


 では、なんだ? この状況は。

 天国か地獄か。いや、こんな獣臭い場所が天国であるはずがない。だとすれば地獄か。なるほど、生前の行いが悪かったから、畜生道にでも落とされたってことか。仏教的なアレか。だとしても、だ。


 転生、という言葉が脳裏をよぎる。

 まさか。ラノベや漫画じゃあるまいし。そんな非科学的なことがあるものか。

 だが、現に俺の意識はここにあり、俺の体は、どう見ても猫のものだった。

 黒猫。子猫ではないが、成猫にしては少し小柄だろうか。自分の体の輪郭がおぼろげにしか分からないのがもどかしい。鏡が見たい。今の自分の姿を客観的に確認したい。


「おい、新入りか?」


 不意に、隣の檻から野太い声がした。

 声のした方に視線を向けると、鉄格子越しに、茶色い毛並みの柴犬らしき犬がこちらを見ていた。その目には、明らかに知性の光が宿っている。


「……喋れるのか?」

 俺が思ったことは、声にはならなかった。代わりに「な、にゃあ?」と間の抜けた音が漏れる。クソ、意思の疎通が図れない。


「喋れるわけねえだろ、馬鹿が。頭の中で考えりゃ伝わるんだよ、前世が人間ならな」


 犬は面倒くさそうにそう言うと、ふい、と顔を背けてしまった。

 頭の中で……?

 まさか、テレパシーか何かか。いよいよファンタジーがすぎる。

 俺は半信半半疑で、目の前の犬に向かって強く念じてみた。


(……ここがどこか、知っているのか?)


(どこって、見りゃわかるだろ。保健所だよ)


 犬は顔をこちらに向けないまま、吐き捨てるように答えた。


 ほ、けんじょ。


 その言葉を聞いた瞬間、俺の脳天をハンマーで殴られたような衝撃が走った。

 保健所。つまり、飼い主のいない犬や猫が、一時的に保護される場所。そして、一定期間内に引き取り手が見つからなければ、<処分>される場所。


(処分……)

 俺は愕然として呟いた。今度はかろうじて、人間の言葉に近い響きになった気がした。


(ああ、処分だ。俺たちは、ここにいる連中はみんな、数日中には殺される。新しい飼い主様とやらが見つからなけりゃな)

 柴犬は、どこか自嘲するように言った。

(お前さんみたいに血統書付きっぽい綺麗な猫なら、ワンチャンあるかもしれねえがな。俺みたいな雑種はもう終わりだ)


 殺される。

 一度死んだはずなのに、また殺されるのか。

 なんのために? なんのために俺は、こんな小さな、無力な体で再び生を受けたんだ? 神がいるというのなら、そいつは相当性格の悪いサディストに違いない。

 サラリーマンとして生きてきた三十数年間。必死に勉強して、そこそこの大学を出て、中堅の商社に入って。上司に頭を下げ、部下の面倒を見て、理不-尽なクレーム処理もこなして、それなりに真面目にやってきたつもりだ。ささやかながら、貯金だってあった。結婚はしていなかったが、それなりに自由で満ち足りた人生だったはずだ。

 それが、すべて無に帰した。

 そして、今度は猫として、訳も分からぬまま数日後には死ぬ運命。


 ふざけるな。

 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!


 怒りがこみ上げてきた。だが、この小さな体では吠えることも、暴れることもできない。俺にできるのは、鉄格子の前で小さくうずくまることだけだ。無力感と絶望が、冷たい水のように心の底から満ちてくる。


 ふと、自分の股間に意識が向いた。

 元男として、当然そこにあるべきものが、ない。代わりに、なにかこう、つるりとした感触があるだけだ。まさかとは思うが。

 俺は恐る恐る、尻尾を上げて自分の下半身を確認しようとした。器用な動きはできず、床に寝転がるような形になってしまうが、なんとか見ることはできた。


 そして、悟った。

 俺は、メス猫だった。


「……………………」


 言葉も出なかった。思考も停止した。

 もはや、絶望を通り越して、一種の虚無が俺を支配し始めていた。

 男としてのアイデンティティも、人間としての尊厳も、生きる権利さえも、すべて奪われた。俺はもう、俺であって俺ではない何かだ。ただの黒いメス猫。数日後には殺処分される、名もなき畜生。


 それからの時間は、地獄そのものだった。

 一日に二度、無愛想な職員がやってきて、金属のボウルにカリカリのドライフードと水を入れていく。最初のうちは、元人間のプライドが邪魔をして、そんな餌を食えるかと意地を張っていた。だが、空腹は本能だ。三度目の食事が運ばれてきた頃には、俺はプライドも何もかも投げ捨てて、無心で乾いた粒を喉に流し込んでいた。味がしない。ただ、生きるための作業だった。


 トイレも、檻の隅に置かれた砂の上でするしかなかった。最初の抵抗感はすぐに麻痺した。羞恥心など、生きるか死ぬかの瀬戸際では何の役にも立たない。


 俺のいる部屋には、俺の他に十数匹の犬と猫がいた。

 ある者は、ひたすら鳴き続けて助けを乞い、ある者は、諦めたように檻の隅で動かず、またある者は、他の動物に威嚇を繰り返していた。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。だが、その声も、一日、また一日と経つうちに、少しずつ静かになっていった。

 時折、職員がやってきて、いくつかの檻から犬や猫を連れ出していく。彼らが戻ってくることは二度となかった。おそらく、処分されたのだろう。次は自分かもしれないという恐怖が、常に空気に張り付いていた。


 俺は、喋る柴犬――ライというらしい――から、この世界のルールについていくつか教わった。

 俺たちのような転生者、つまり元人間は、そう珍しくはないらしい。だが、ほとんどの元人間は、この状況に耐えきれず精神が崩壊するか、あるいは動物としての本能に呑まれて、早々に元の人格を失ってしまうのだという。

 ライは、俺と同じように事故で死んだ元トラック運転手らしかった。皮肉な話だ。俺を撥ねたのが、こいつだったりしてな。


(達観するしかねえんだよ)

 ライは言った。

(騒いだって、喚いたって、運命は変わらねえ。どうせ死ぬなら、静かに死ぬ。それが俺たちにできる、最後の意地だ)


 彼の言葉は、妙な説得力を持っていた。

 そうだ。もう、どうしようもないのだ。

 俺は暴れるのをやめた。鳴くのもやめた。檻の中をうろつくのもやめて、ただひたすら、檻の隅で丸くなっていた。まるで置物のように。感情を殺し、思考を停止させ、ただ時が過ぎるのを待つ。それが、俺なりの抵抗だった。


 職員たちは、そんな俺を<大人しい猫>だと思ったらしい。

「この黒い子猫、綺麗だし人馴れしてそうだから、貰い手が見つかるといいんだけどな」

 なんて会話が聞こえてきたが、俺の心には何も響かなかった。人馴れ? 馬鹿を言え。これは馴れているんじゃない。諦めているんだ。お前たち人間が作り出した、この理不尽なシステムに対する、精一杯の無言の抗議だ。


 来る日も来る日も、俺はただじっとしていた。

 空腹を感じれば餌を食べ、喉が渇けば水を飲み、生理現象があれば砂の上で用を足す。それ以外の時間は、ただ目を閉じて、かつての人生を思い出していた。

 初めて契約を取った日のこと。後輩に慕われて飲みに連れて行った夜のこと。くだらないことで友人と笑い合った週末のこと。一人で見た映画のこと。母親の作ってくれた生姜焼きの味。

 すべてが、遠い昔の夢物語のようだ。もう二度と、あの日常に戻ることはない。


 そして、運命の日がやってきた。

 その日の朝、職員が持ってきたリストを読み上げる声が聞こえた。

「……柴犬、ライ」

 隣の檻で、ライがぴくりと体を震わせたのが分かった。

「時間だ」

 彼はそう短く呟くと、職員にリードをつけられ、静かに檻から出て行った。俺の方を一度も振り返らなかった。それが、彼の最後のプライドだったのだろう。


 俺の番は、まだだった。

 だが、ライがいなくなったことで、この施設の静けさは一層深まった。次は俺だ。明日か、明後日か。


 その日の午後。

 施設の入り口の方から、複数の足音が聞こえてきた。職員とは違う、知らない人間の匂い。

「見学の方ですか? どうぞ、こちらへ」

 職員の案内する声。どうやら、新しい飼い主を探しに来た人間がいるらしい。

 檻の中の犬猫たちが、にわかに色めき立つ。最後のチャンスとばかりに、愛想よく鳴き声を上げたり、尻尾を振ったりする者たち。その必死さが、哀れだった。


 俺は、動かなかった。

 どうせ、無駄だ。

 誰かに媚びを売ってまで、生き延びたいとは思わなかった。人間としてのプライドはズタズタにされたが、最後の最後、魂の欠片くらいは守りたかった。俺は檻の隅で目を閉じ、死んだふりを続けた。


 足音が、俺の檻の前で止まった。


「この子です。交通事故で保護されたんですが、怪我はもうすっかり治ってます。とても大人しくて、綺麗な黒猫ですよ」


 職員のセールストークが聞こえる。

 うるさい。放っておいてくれ。俺はもう、誰にも関わるつもりはない。


「……」


 見学者は、何も言わなかった。

 ただ、じっとこちらを見ている気配だけが伝わってくる。重く、静かな視線。値踏みするような視線とは少し違う。もっとこう、深い井戸の底を覗き込むような、不思議な視線だった。


 やがて、重々しい、低い男の声が響いた。


「……お前、ウチに来るか」


 その声に、俺は思わず目を開けてしまった。

 鉄格子の向こうに、一人の男が立っていた。

 年の頃は四十代半ばだろうか。着古したミリタリージャケットに、無精髭。短く刈った髪には白いものが混じり、その表情は疲弊しきっているように見えた。笑っているわけでも、同情しているわけでもない。ただ、虚ろな目で、まっすぐに俺を見つめていた。


 神か、悪魔か。

 あるいは、その両方か。


 男の目が、俺の目と確かに合った。

 その瞳の奥に、俺は自分と同じ種類の孤独と絶望の色を見た気がした。


 俺が何か答える前に、職員が嬉しそうに檻の鍵を開ける音がした。

 これが、俺の新しい人生の始まりなのか。

 それとも、地獄の第二章の幕開けに過ぎないのか。


 無骨な男の腕に抱き上げられながら、俺はただ、これから自分を待ち受ける運命を、冷めた頭で考えていた。

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