第2話 とりあえずタックル

 リックは、何の準備もなく戦いの場に投げ出された。武器も、鎧も、状況の説明さえない。足元はむき出しの石畳。その目の前では、ラグナが両手斧を構え、獰猛な笑みを浮かべながらゆっくりと歩を進めてきていた。重厚な鉄の鎧がわずかにきしむ音が、リックの耳にいやに鮮明に響いた。


「え……? こんな所で死にたくない……」

 リックの口から、願うような声が漏れる。


「いくぞ、へなちょこ! 覚悟しやがれ!」


 ラグナが咆哮とともに突進してきた。両手斧が大上段に振りかぶられ、空気を裂くような唸りを上げる。リックは悲鳴を上げながらその場から飛び退いた。足がもつれそうになりながらも、転ばずに何とか走り出す。逃げる――それ以外に、今の自分にできることはなかった。


「なんなんだこれ……夢じゃないのか? どうして僕が……」


 頭の中をぐるぐると巡る思考を振り払うように、リックは闘技場を縦横無尽に駆け回る。ラグナは明らかに焦れていた。彼女の攻撃は一撃一撃が重く大振りで、動きも速いが予備動作が大きい。その隙を突いてなんとか逃げられているが、体力は確実に削られていく。


「止まりやがれチキン野郎!」

 怒号とともにラグナが斧を横に振る。石畳が砕け、土埃が舞い上がる。観客席からはどよめきが起こった。


「はぁ……はぁ……このままじゃ……」

 リックは肩で息をしながらも、頭は必死に回転させていた。


 そして、ついにラグナが苛立ちの極みに達し、怒りをぶつけるように両手斧を渾身の力で地面へと叩きつけた。刃は石に深く突き刺さり、引き抜くのに数秒かかるはず――その瞬間、リックの中で一つの決意が生まれた。


「今だ!」


 思わず声を上げながら、彼は前傾姿勢で地を蹴った。


「う、うおおおおお!!!」

 渾身のタックル。勢いのまま突っ込むリックの姿に、観客が一斉に息を呑んだ。


 斧の柄を掴んでいたラグナは、まさか攻撃されるとは思っていなかったのだろう。無防備な状態で、リックのタックルをまともに受け、そのまま地面に倒れ込んだ。


「な、なんだ……!? うわぁっ!」


 リックは倒れ込んだラグナの上にのしかかるような形になり、咄嗟に追撃しようとするが――そこで動きを止めてしまった。目の前には、頬を赤らめて驚いた顔のラグナがいた。凛々しく、そしてほんの少し――かわいらしくも見えた。


「……っ」


 リックは攻撃をためらった末に、彼女の頬に手を伸ばし、そっと撫でた。


 その瞬間、闘技場の喧騒がすっと引いた。まるで時間が一瞬止まったかのような静寂。リックの手の中にあったのは、意外にも柔らかく、温かな感触だった。


「お、お前……何やってんだよ?」

 ラグナの声には、いつもの勢いはなかった。困惑と、わずかな恥じらいが混じっていた。


「いや、その……戦うのが嫌なんだ。僕はただ普通に生きていただけなのに、どうしてこんなところにいるのか分からないんだ。」


 リックは震える声で、自分の本心を吐き出した。怒鳴り合いでも、勝敗でもない。ただ、自分が「なぜここにいるのか」、それだけが知りたかった。


 ラグナは目を見開き、それから何かを悟るように表情を緩めた。

「ふん……そんな甘っちょろいこと言ってると、本当に死んじまうぞ。でも……まあ、そのバカ正直なところ、嫌いじゃねえよ。」


 リックの胸の奥が、少しだけ軽くなった。怖さは消えていない。でも、少なくとも今この瞬間、誰かが自分の言葉を受け止めてくれたことが、救いだった。


「そ、その……とりあえず話し合いをしよう……?」


「話し合いぃ?」ラグナが眉をひそめる。しかしその声には、あの殺気はなかった。


 彼女は斧を肩に担ぎ直すと、一歩距離を取って立ち上がった。


「まあいい。聞くだけは聞いてやる。ただし、変なこと言ったらぶっ飛ばすぞ。」


「うん……ありがとう。」


 リックは深く息を吐き、メアリーの方に目を向けた。彼女は、変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべて頷いた。


 観客席からは再びざわめきが起きていた。戦いの中で交わされた言葉。そして、斧の代わりに差し伸べられた手。それは、この世界ではきっと「異端」なのだろう。


 だがリックは、ようやく一つの小さな選択を自分の意思で下すことができた――闘うより、対話を選ぶという選択を。

 その一歩が、彼の運命を大きく変えていくことになるとは、このとき誰も知る由もなかった。

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