第17話

 夜風がやわらかく頬を撫でる。

 その感触すら、優しいと錯覚するくらいに――心が疲れていた。


「で? 今日もまた家から逃げてきたってワケ?」


 ベンチに腰をかけたまま、詩織さんは煙草をくゆらせながらそう言った。

 その無愛想な声が、今の俺には妙に心地よかった。


「……逃げてる、つもりは、ないです。たぶん」


「ふーん、じゃあなんでそんな顔してんの」


 煙の向こうから投げかけられた言葉に、俺は曖昧に笑った。

 答えたくないわけじゃない。

 ただ、自分の気持ちを整理できていないだけだ。


 香澄のこと。

 家でのこと。

 あの夜のぬくもりと、見えない鎖。


 そして今、他の女性と並んで座っていることへの、罪悪感。


 だけど――。


「……あんた、もう限界なんでしょ」


 詩織さんは、まっすぐに俺の顔を見た。


「……はい」


 初めて、声に出せた。


 その瞬間だった。


「――へぇ。限界、なんだ?」


 背後から、聞き覚えのある声。


 全身が凍りついた。

 振り返ると、そこには香澄が立っていた。

 微笑みを湛えたまま、まるで偶然通りかかったような顔で。


「こんな夜に、公園のベンチで女の人と……ふーん。ねぇ、真尋くん」


 手には、俺が落としたキーケースが握られていた。


 詩織さんがゆっくりと立ち上がる。


「……誰?」


「真尋くんの、彼女。香澄って言います」


 香澄は微笑んだまま頭を下げた。

 けれど、その瞳は、氷のように冷たかった。


「へえ。……あんたのこと、心配で尾けてきたってわけ?」


「そんな物騒なこと、するわけないでしょ? ただ、落とし物を届けに来ただけ」


 キーケースが差し出される。

 詩織さんは受け取らない。ただ、じっと香澄の顔を見ていた。


 俺は言葉を失っていた。


「真尋くん。帰ろう?」


 香澄が俺の手を取る。

 その手は強く、決して拒めないように感じた。


「……」


 反射的に立ち上がろうとした。

 そのとき。


「ねぇ」


 詩織さんの声が、静かに響く。


「それでいいの? あんた、このままでいいの?」


「……え」


「ここで変わらないと、ずっとこのままだよ?

 “疲れてる”って言い訳して流されて、傷ついて、泣いて、また戻って……それが、あんたの人生?」


 俺の足が止まる。


 詩織さんの目は、何も飾らない真正面だった。


 震える唇で、香澄の手をほどいた。


「……帰らない」


「……え?」


 香澄の声が、ひび割れた。


「……ここにいたい。まだ、話してたいんだ」


 一瞬、時間が止まった。


 香澄の笑顔が崩れ始める。


「……話してたい……?」


 唇が小刻みに震え、目が見開かれる。


「……私より、その女のほうがいいって言うの……?」


 嗚咽に似た声が、香澄の喉から漏れる。


「……どこがいいの、こんな無愛想な女のどこが!? 私のこと好きって、あんなに言ってたくせに……!」


 叫ぶように言ったその顔は、もはや笑顔の仮面をつけていなかった。


「香澄さん。黙ってくれる?」


 詩織さんが低く言った。


「ここはあんたの家じゃない。ヒステリー起こすなら、よそでやって」


「……っ! 勝手にすれば!」


 香澄は、目を見開いたまま俺を睨んだ。

 歯を食いしばり、拳を握り、ついには踵を返す。


 足音は、ヒールが砕けるように鋭く、地面に叩きつけられていた。


 ――夜が、静寂を取り戻した。


「……ごめん」


 俺が呟くと、詩織さんはただ煙を吐き出した。


「謝るくらいなら、最初からブレないこと。……次、同じことしたら、私はもう君と会わない」


 そう言って、彼女はベンチに腰を下ろした。


 その隣に、俺はそっと座った。

 やっと、心が少しだけ呼吸を取り戻した気がした。

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