第12話
朝、目が覚めると、香澄がキッチンに立っていた。
卵を焼く音。みそ汁の湯気。白いご飯の匂い。
すべてが、理想的な“朝の風景”だった。
彼女は振り返り、笑った。
「おはよう、真尋。よく眠れた?」
「……うん」
うなずきながら、眠気が取れないのは寝不足のせいじゃないと気づく。
頭がずっと、どこか“詰まっている”。
テーブルには、完璧な朝食が並ぶ。
みそ汁の具は、昨日真尋が何気なく「大根と油揚げが好き」と言ったものだ。
ちゃんと覚えてくれている。そう、香澄は、ちゃんとしてる。
「冷めないうちに、食べてね」
彼女の声に、無意識に箸を持った。
──けれど、手が止まった。
(……最初に、何を食べるんだっけ?)
選べない。
味じゃない。順番がわからない。
ただ食べるだけの行為なのに、頭がフリーズしていた。
香澄は気づかない。にこにことテレビのニュースを眺めている。
だから俺は、みそ汁を口に運ぶ。
味は──しない。
(……おかしいな)
心の中でそう思うが、口には出せない。
笑ってお礼を言う。それが“正解”だと思った。
⸻
大学では、講義に出た。
席について、ノートを開いて、ペンを持った。
いつも通り。何も問題ない。
けれど、板書の文字が、目に入ってこない。
(なんだこれ……)
チョークの音は聞こえる。教授の声も届いている。
でも、意味だけがすり抜ける。
まるで、海の中にいるみたいだった。
言葉が、全部、泡になって浮いていく。
ノートを見ても、そこに書いたはずの文字が、まるで他人の字に見えた。
⸻
昼休み、スマホに通知音が鳴った。
それだけで、心臓が跳ねた。
画面には、香澄のLINEが1件。
『今日、夜ごはんカレーにしよっか?』
それだけだった。
怒ってない。詰められてもいない。普通のメッセージ。
……なのに、汗が背中をつたう。
(なんでだ……なんで、こんなに怖いんだ)
「おーい、真尋!」
肩を叩かれて振り返ると、颯太が立っていた。
「何回呼んでも返事ねーから。お前、ぼーっとしすぎ」
「……あ、ごめん、考えごとしてた」
「考えごと? 寝てたんじゃね?」
冗談めかした言葉にも、笑えなかった。
「ま、いいけど。美優が唐揚げ分けてくれるってよ。ほれ」
差し出された唐揚げを受け取る。その瞬間、指先が震えた。
「……ありがと」
そう答えながら、
(これ、香澄が見てたら)
という想像だけで、胃がキュッと縮む。
けれど、口に入れると、唐揚げの味だけははっきりした。
それが妙に、悲しかった。
⸻
帰宅すると、香澄が玄関まで迎えに来てくれた。
「おかえり〜! カレー、いい感じに煮込めてるよ?」
明るい声。満面の笑み。
匂いは、美味しそうだった。
でも、俺の嗅覚は、どこか遠くにいた。
テレビではバラエティ。
香澄が笑うたびに、俺は「うん」と頷く。
けれど、画面の内容は、まったく頭に入ってこなかった。
⸻
夜。風呂場。
湯船につかって、壁にもたれた。
湯気で視界が曇る。汗が混ざって、何が涙かわからなかった。
手を見つめる。
力が、入らない。
(なんでこんなに疲れてるんだろう)
日中、何もしていない。怒られてもいない。暴力もない。
香澄はずっと優しい。
……なのに、全身が重い。
香澄の笑顔を思い出すと、胸が苦しくなる。
声が聞こえると、胃が鳴る。
(おかしい。絶対、どこかが……)
そう思っても、その“どこか”が特定できない。
悲しいのか、怖いのか、疲れてるのかすらも、わからなかった。
⸻
布団に入っても、眠れなかった。
横には香澄がいる。寝息は静かで、幸せそうだった。
「……真尋」
突然、香澄が寝たまま囁いた。
「ずっと、そばにいてね」
夢の中の言葉のようだった。
でも、なぜか背中に冷たいものが走った。
(……この人、今、起きてたんじゃ……)
目を閉じたまま、笑っていたような気がした。
そのまま、俺は一睡もできなかった。
⸻
翌朝。
香澄は目覚ましよりも早く起きて、また朝食を用意していた。
俺は座った。
みそ汁、卵焼き、ほうれん草のおひたし。
どれも“好きなもの”だった。
けれど、咀嚼のたびに、喉の奥に“石”があるように感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます