第11話

 水を飲むためだけに来たはずの休憩室で、気がつけばもう五分近く突っ立っていた。


 ペットボトルの表面には水滴がびっしりとついていて、それがじわじわと手の中の熱を奪っていく。


 けれど、冷たいとすら感じなかった。


 ――ヒリつく。首の内側が、うずくように疼いていた。


 今朝、鏡を見て息を呑んだ。

 赤黒くなった皮膚に、三本、斜めに走る引っかき傷。

 触れるだけで微かに火照っていて、どれだけ襟を立てても、妙にその存在感だけは消えなかった。


 シャツの襟を少し高めにしていたのも、今日ジャケットを羽織っているのも、それを隠すためだった。

 そのはずなのに、どこか無意識に――誰かに気づいて欲しい、なんて思っていたのかもしれない。


 バカだな。

 そんなことを思ってる自分に、心の中で吐き捨てる。


 これは――香澄がつけた傷だ。


 昨夜、「浮気したら、こうするんだからね」と言って、俺の身体をベッドに押し倒してきた。

 笑っていた。

 でもその爪は、痛みを通り越して、皮膚を裂いた。

 快楽でも愛情でもなく、所有の証として。


 爪痕なんて、冗談でも本気でも、いらない。


「……せんせーい!」


 扉が勢いよく開いて、しずくの元気な声が飛び込んできた。


「ここにいたんだ。捜したんだよ?」


 振り向くと、制服のリボンを軽く結び直しながら、彼女が歩いてくる。

 いつもより少し髪を巻いていて、明るめのリップがよく似合っていた。

 教室では見せない、バイト講師だけに見せる顔。


「悪い。ちょっとボーッとしてた」


「またー? 最近、よくボーッとしてる気がするよ。寝不足?」


 笑いながらそう言って、しずくは俺のすぐ隣に並ぶ。


「ほら、おやつタイム。今日はビター系ね。甘すぎないやつ」


 そう言って、ポケットから小さなチョコを取り出す。

 前にカバンの中に勝手に入っていたものと、同じシリーズだった。


「またくれるのか?」


「当たり前でしょ? 私が“あげたい”って思ったからあげるの。ちゃんと食べなよ?」


 いつもの調子なら、そのままふざけた言い合いになる。

 なのに、今日は何も言えなかった。

 ただ、ありがとうとだけ言って、そっと受け取る。


「なんか、元気ないね」


「……そっちこそ、やけに優しいな」


「そりゃあ、ね?」


 そう言って、しずくが俺の顔をじっと見つめてくる。

 無邪気なふりをして、人の心の奥を平気で覗いてくる。

 その視線が怖くて、俺は視線を逸らして、うっかり、襟元を指で直した。


 そのときだった。


 彼女の指が、すっと俺の首に触れた。


「……ねえ」


 声が変わった。


「これ、なに?」


 軽く触れただけのその指先に、ぞわりと寒気が走る。

 襟の隙間から、引っかき傷が――見えたんだ。

 しまったと思ったときにはもう遅く、彼女の瞳は真っ直ぐにその“痕”を見ていた。


 皮膚に残された、明確な“他人の意図”。


 しずくの顔から、見る間に色が消えていく。


「……猫でも飼ってるの?」


「いや、違う。あの……ちょっとした、事故で」


「うそ、だよね」


 彼女は笑わなかった。

 むしろ、何かに気づいたように、ほんの少しだけ、息を止めた。


 静かだった。


 次に彼女が口を開いたとき、その声は震えていた。




「……先生。私のせいで、これ、つけられたんだよね?」


 その声は、ひどく静かだった。


「ちが――」


 反射的に言いかけた言葉は、最後まで出なかった。


 しずくは首を横に振った。何も責めるような目じゃなかった。

 ただ、自分でそう結論を出して、そう決めた人の目だった。


「私が、先生に近づいたからだよね。

 わかってたのに、止まれなかったの。……止まりたくなかったの」


 彼女の手が、無意識にスカートの端を握りしめる。


「最初はね、からかってただけだったの。

 でも、いつの間にかどうしてもブレーキがきかなくて……」


 しずくは言葉を切った。

 ほんの一瞬、まぶたが震えた。けれど、涙は落ちない。


「そしたら、先生が傷ついてた。……首に、こんな傷がついてるなんて、思わなかった」


 喉の奥で何かが詰まったような声だった。


「私、ばかだよね。笑っちゃうくらい、勝手で……愚か」


 しずくはふっと、目を伏せて息を吐く。


「……もう、近づかない」


 その言葉は、鋭く、でも優しかった。


「そばにいれば、また先生はあの人に何かされる。

 私、そんなの、もう見てられない。……本当に、ごめんなさい」


 やっと、声が震えた。


 けれど、彼女は笑わなかった。

 涙も拭かなかった。


 ただ、真正面から俺を見て、ほんの少し、口の端を持ち上げた。


 それは、強がりでも皮肉でもない、

 “最後の気持ち”を押し込めるような、静かな微笑みだった。


「……ごめんね、先生」


 彼女はそう言って、踵を返した。

 制服のスカートが揺れ、歩くたびに揺れが遠ざかっていく。

 教室の扉が開き、閉まる音がした。


 俺は、何も言えなかった。

 どんな言葉も追いつかないと思った。


 気づけば、ペットボトルの中の水はぬるくなっていて、

 手のひらに残る温度だけが、なぜか妙に痛かった。

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