第8話

 午後の講義は、耳を素通りする言葉の羅列だった。

 黒板に走るチョークの線が、文字ではなくただの白い傷にしか見えない。


ペン先は動いているのに、頭の奥ではずっと昼の会話が反芻されていた。


(別れた方がいいんじゃないか?)


 否定はしたはずだ。


だが、その刺は喉に残ったまま、息をするたびに引っかかる。


 あの時、美優が見せた「何かあったら」という顔が、妙に脳裏にこびりついて離れない。


 夕暮れが濃くなる頃、塾の明かりが視界に入った。

 入口の自動ドアが開くと、蛍光灯の温かい色と、生徒たちのざわめきが迎えてくれる。


この空気の方が、あの部屋よりはまだ呼吸がしやすい。


 出席を取り、黒板に板書を始める。


チョークが走る音と、生徒のノートをめくる音が重なる。

 ふと、前列のしずくが頬杖をつき、顎を少し上げてこちらを見た。


「先生、この前のチョコ、美味しかった?」


 心臓が一瞬だけ跳ねる。

 あの夜、香澄に問い詰められた場面が蘇る。けれど、目の前の生徒に罪はない。


「……ありがとう。美味しかったよ」

「ふふ。良かった。あげた甲斐あった」


 言葉は無邪気なのに、その目だけが少し笑っていない。冗談とも本気ともつかない、その温度差が胸をざわつかせる。


「あ、そうだ先生。わからないとこがあるんだ。授業終わったら、ちょっと教えてくれる?」

「分かった」


 それだけで、しずくは満足げに笑みを深め、再びノートに視線を落とした。



 夜九時。


 授業が終わり、生徒たちが一斉に帰り支度を始める。椅子の脚が床を擦る音、廊下に消える靴音。


 最後に残ったのは、しずくと俺だけだった。


「ここがさ、どうしても引っかかるの」


 彼女はノートを抱え、机を引き寄せる。脚が床で小さく音を立て、机の端と端が触れ合った。


 問題のページを開くと、ほのかに甘い香りがした。

 ペン先で数式を書きながら説明をする俺の横顔を、しずくは真剣な目で追ってくる。

 だが、視線の奥にほんのわずかな遊びが混じっていることに気づかないほど、俺は鈍くない。


「ここはマイナスからプラスに変わるから極小で――」


 そう言いかけたとき、しずくの指先がノートを押さえるふりで俺の手の甲に触れた。


 わざと、か。それとも偶然か。判別できない。だから余計に意識する。


「……なるほど」


 彼女は何事もなかったように頷き、ペンを走らせる。その横顔は真面目なのに、口元だけがわずかに緩んでいた。


 気づけば、時計は夜十一時に近づいていた。


「もう閉めるぞー!」と塾長の声が廊下から響く。

「すみません、すぐ出ます」


 教科書やプリントを鞄にしまい、電気を落として教室を出る。

 夜の空気は冷たく、街灯の光が二人の影を長く引き伸ばした。


「もうこんな時間……」


 しずくが呟き、ふいに俺の顔を見上げる。


「先生、家まで送ってください」


「え」


「お願いします」


 拒否権を与えない声音。


そのまま歩き出すと、しずくは自然な仕草で俺の袖をつまんだ。引っ張るでもなく、ただそこに指先を置くように。



 住宅街の奥、低層のマンションが見えてきた。


「ここまでで大丈夫。ありがとう、先生」


 そう言って袖から指が離れる――と思った瞬間、再び掴まれる。


 振り向くと、しずくは真顔だった。


「……今日、親いないんだ」


 その一言が、空気を変える。

 笑顔も冗談もない。ただ事実を告げるだけの口調。なのに、意味ははっきりしている。


「少しだけでいいから、上がっていって」

「いや、でも――」

「先生、寒いでしょ?」


 袖を掴む手に、さっきよりも力がこもる。

 目元にうっすら笑みを浮かべながら、オートロックの扉を開けるしずく。暖色の照明が彼女の輪郭を柔らかく照らす。


「ほら、早く」


 背を押されるようにして、俺はその中へ足を踏み入れていた。

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