第3話
予備校の教室に入ったのは、バイト開始の十五分前だった。
白い蛍光灯が、昼間よりも余計に目に刺さる。
チラつく空腹を押し殺しながら、俺は講師用デスクに鞄を置いた。
今日の一コマは、現代文の個別指導。
担当は、高校三年生の御影しずく。
細身で、制服のリボンが妙に似合ってて。
話すとどこか飄々としてて、でもどこか人を食ったような目をしている。
俺とは、たぶん世界が違う子。
なのに、時々――その視線が妙に鋭い。
「こんにちは、先生」
声に顔を上げると、しずくが笑顔で立っていた。
ほんの少しだけ、制服のスカートが短い。
ポケットに手を突っ込んで揺れる仕草が、小悪魔的で、妙に目に残る。
「あ、うん。こんにちは。今日もよろしく」
「よろしくお願いしまーす。先生、今日……なんか、疲れてません?」
「え……?」
ドキッとした。
たぶん、顔に出てたんだろう。無理やり押し込めてきた“何か”が。
「そんなことないよ。ただ、ちょっと寝不足なだけ」
「ふぅん……」
しずくは俺の顔をじっと見て、それ以上は何も言わず、鞄からノートを取り出した。
授業は静かに進んだ。
けど、俺の集中は、どこか上の空だった。
香澄とのやりとりが頭に残っていた。
『……さっき、LINEの返信遅かったよね』
『ほんと、真尋って“そういうとこ”あるよね』
昼に減らされたお小遣いは、2000円。
今日もまともに食べられていない。
駅前のスーパーで買った割引パン一個が、昼と夜の全てだった。
そんな俺の“限界”に、気づかれたくなかった。
「……先生」
「ん?」
視線を戻すと、しずくが俺の顔を覗きこんでいた。
あまりにも近くて、思わず少しのけぞった。
「お腹、鳴りましたね?」
「……っ!」
顔が熱くなった。
情けなくて、恥ずかしくて、何か言おうとしても声にならない。
「先生、今日もご飯食べてないんですか?」
「いや、その……ちょっと、色々あって」
「色々?」
首を傾げながらも、笑みを崩さない。
けどその目は、何かを“見抜こう”としているようだった。
すると、しずくはポーチを開けて、小さな包みを取り出した。
チョコレートのスティックパイ。
包装紙がカサッと鳴る。
「これ、どうぞ。甘いですよ」
「え……いや、でも……」
「女の子からの差し入れって、断っちゃダメらしいですよ? 常識的に考えて」
冗談めかして笑うしずくに、俺は何も言えなかった。
けど、手は動かなかった。
(……香澄に、バレたら)
誰かからもらったものを口にしたなんて、もし知られたら――
スマホを見返す癖が抜けない。
通知もないのに、何度も画面を見てしまう。
しずくはそんな俺を見て、ゆっくりとチョコを机の上に置いた。
「無理には、勧めませんよ。でも……先生がそれでいいなら、いいです」
その言い方が、どこか意味深に聞こえた。
しずくはそれ以上何も言わず、ノートに視線を戻した。
でも、俺の中に残ったのは、チョコの甘い匂いと、彼女の“目”だった。
俺の中の何かを、少しずつ侵食するような。
(……まさか、気づかれてる?)
そんな不安が、喉の奥をひりつかせた。
チョコの包みが、風に揺れて、カシャ、と音を立てた。
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