六月に入ってまた一段と蒸し暑くなった土曜日のこと、昼食が消化され小腹がすいてくる頃合い、愛理が俺の部屋を訪ねてきた。


「お忙しいところ申し訳ありません。今、お時間よろしいでしょうか?」


 何だ、いつにも増してかしこまって。

 学習机の椅子の上で身をひねって振り返ったまま訝る俺は、センター試験──共通テストの前身だ──の過去問演習を終えたところだった。


「いいけど、どうした? 何かあったのか?」

 

 Gから始まるあれスカラファッジョでも出たのだろうか。しかし、母さんも良樹さんも今日は夜勤で、まだ在宅しているはずだが。


「あの、その」愛理は豊満な胸乳むなぢの前で組んだ指を、握ったり開いたりともじもじさせては、うつむきがちな上目遣いに俺を窺っている。「ええと、そのですね……」


 しかしその朱唇は、ためらうように揺蕩たゆたうばかりで意味のある言葉を紡いではくれない。

 いったいどうしたというのか。

 怪訝に満ち満ちた眼差しでまじまじと彼女を見れば、ナチュラルメイクながらいつもより気合いが入っているようで、服装も、ひらひらとした白のティアードロングスカートに水色のカットレースのカーディガンと、さりげなくもしっかりとお洒落している。艶やかな黒髪は後ろの低い位置で結ばれているようで、正面からでは詳細は見えないが、アレンジが加えられている気配がある。

 まるで初夏のお散歩&買い物デートにでも行こうとしているかのようではないか。

 とは思ったが、俺たちの関係性を考慮すると核心に触れるのはためらわれたので、


「今日の愛理、また一段とかわいいよ。出かけるんなら、変なのに絡まれないように気をつけてな。お前のかわいさだと明るくても油断できないからな」


 当たり障りのない義兄的発言にとどめた。

 が、次の瞬間、


「!!」


 ぱぁぁあっ、と愛理の瞳が華やぎ、息急き切るように言った。


「あのっ、それならっ、裕也さんが守ってくださいっ!」


 愛理のほうからこんなふうに強く誘われたのは、記憶をひっくり返してよくよく考えてみても、初めてではなかろうか。どんな心境の変化だろう。

 愛理は唇を固く結んで色よい返事を待っている。

 よりを戻す気などごうもない以上断るべきなのだろうが、本当に何かあったらいけないから、と自分に言い訳して首肯した。

 引き結ばれていた唇が、ふわっと甘やかにほどけた。







 というわけで、ベージュのチノパンに謎のセンスの英文のTシャツ、よれたスニーカーというやる気の感じられない格好の俺と大人向けファッション雑誌の夏コーデ特集の中から飛び出してきたかのような風情の愛理は、住宅街の道を並んで歩き、最寄りのレンタルビデオ屋にやって来た。

 愛理が言うことには、夕食の買い物のついでに映画のDVDを借りたいらしい。俺はその用心棒(?)というわけだ。

 何を観たいのだろう、と棚を物色する愛理を一歩下がって観察していると、彼女はおもむろに振り返った。


「あの、裕也さんは何か観たい映画はありますか?」


「いや別に」


 この時代にある映画で本当に興味のあるものは大学生のころに借りて観ている。繰り返し観たいと思えるほどのものはなかったはずだ。


「そうですか……」愛理は悄然と答えた。


 自分が観たいから借りるのではなかったのか。

 と思わないでもなかったが、義妹をいじめて悦に入る趣味は少ししかないので、俺のクラスメイトの双子──といっても二卵性だが──がうるさく推していた映画を挙げた。


「え、あれを観たいのですか?」愛理は驚きの色を浮かべて聞いてくる。「本当に?」


「そんなにつまらないのか?」


 内容は教えられていない。いいから四の五の言わずに前情報なしで観ろ、の一点張りで、タイトル以外は何の情報もない。ひどいプレゼンだ。


「い、いえ、そういうわけではないのですけど」


 愛理はまた、うつむき加減にもじもじしはじめた。彼女の透き通るような純白の肌が、頬から首に掛けてほんのりと薄紅色に染まっていくのがわかった。

 何が問題なんだ、観たくないのか、と尋ねても、イヤイヤをするように首を左右に振るばかりで答えてくれない。

 こういうときに俺は迷わない。


「悩んでても時間の無駄だし、それにして、さっさとスーパーに行こうぜ」


 愛理はすぐにこくりと首肯した。

 こういうときの彼女は、決まっていつもよりも従順だ。







 しかし愛理は、スーパーに着くと態度に張りを取り戻した。


「今夜何が食べたいですか?」に始まり、「──鶏肉ですか? では、チキン南蛮はいかがですか?」と秒で主菜を決め、「となると副菜はさっぱりしたものいいですよね……あら、アスパラが新鮮ですね。一つはこれを使いましょうか──にんじんもいい感じですね。それなら……もう一つはにんじんとほうれん草の和え物はどうでしょう?」と謎の審美眼で鮮度を見抜き、「あと必要なのは……」と視線を走らせ、手際良く食材を揃えた。


 やはり人間は得意なことを前にすると生き生きとしてくるものなのだな、と俺は一人うなずいた。

 ……え? お前は何をしていたのかって? 

 俺は一生懸命カートを押してたよ。正直、俺来る意味あったかな……、というようなやるせない気持ちにならないでもなかったが、まぁいいよ、愛理がうれしそうだったから。

 事件、というほどではないが、ちょっとした想定外に遭遇したのは、少し混みはじめているレジの列に並んだ時だった。


「お、裕也じゃん」「やほー、元気ぃ?──あれ、女連れ?」「マジやん──うおっ、ヤバ」「うっそ、かわよっ」


 後ろから掛けられた、気安くもやかましい声に振り返ると、くだんの双子、天方あまかた陸人りくと海羽みうが、俺──ではなく、隣に寄り添う愛理を見開かれた目で見ていた。彼らも二人で買い物のようだ。

 天方姉弟は俺と同じ中学出身で、陸人のほうは更に部活も同じ──サッカー部──だった。俺はフィールド中央でパスを出す司令塔、陸人は最前列でシュートを決める点取り屋で、あのころは若く、暗くなるまで元気にグラウンドを走り回ったものだ。

 陸人も海羽も現役のアスリートで爽やかに焼けた小麦色の肌をしている。男女での基準の違いはあるが髪も短めで、総じてとても似た雰囲気をまとっているが、目だけは陸人が一重、海羽が二重と分かれている。サッカー部の送迎の際に見た彼らの両親は共に二重瞼だったはずなので、陸人は、突然変異等の例外的な事態を考慮しないなら、四分の一を引いたのだろう。

 さて、まずは、不安そうに俺と天方姉弟とを視線を行ったり来たりさせている人見知りの愛理を安心させるために、


「星高のクラスメイトだよ。同中なんだ」


 と雑に紹介し、そのクラスメイトたちにも愛理を義妹と説明した。愛理です、いつも裕也がお世話になっております、と彼女もしずしずと挨拶した。


「おー、この子が例の」と陸人。


 そして海羽も、「思ってたのの五倍はかわいいわ。神スタイルだし、服もメイクも鬼かわだし、グラビアアイドルでも連れてんのかと思ったわ」


「てか、読モとかやってたりすんじゃね?」と陸人が引き継ぐように言う。愛理が震えるようにかぶりを振ると彼は、「──やってない? へぇ、でもやれそうだよな」


「マジでそれ」海羽は小気味よく相づちを打つ。「愛理ちゃん、服どこで買ってるの?」


 などなど、陽キャのノリで悪気なくぐいぐい来られて、陰キャの愛理はたじろいでいるようだった。俺のTシャツの裾を繊細な指先で控えめにつまんで、その目は、助けて、と訴えている。

 ので、


「こいつ人見知りだから、それくらいにしてやってくれ」


 ぷはっ、と双子は同時に噴き出した。


「彼氏かよ」と突っ込む陸人。


「知り合ってまだ二箇月なんでしょ? 何、裕也、もう手出しちゃった?」と半笑い──からかいの目の海羽。「昔から面食いだもんねぇ~」


 愛理がぴくっと揺れたのが、つままれた裾を通して伝わってきた。

 愛理には元カノのことはほとんど話していない。ろくに恋愛経験のない彼女にとってその存在は未知の劇物のようなものだろう、と考えたからなのだが、女友達Bによる、「彼氏君の元カノめっちゃかわいいんだよ~w」という最悪の不意打ちが最高の効力を発揮する土壌をせっせと耕してしまっていたらしい。


「どういうことですか?」


 愛理は、おそらくは等分に聞いている。真顔、そして平静な声音だが、その奥には明確な不安と悋気りんき、敵愾心が垣間見える。

 おやおやおや~? とばかりにおもしろそうに海羽はその猫目を細めた。

 と、そこで俺たちの会計の順番が来て、これ幸いと愛理に応対を頼む。不満そうに見返されたが、「後でちゃんと説明するから」と言うと、しぶしぶながらうなずいてくれた。


 双子のほうに向き直ると、


「ごめんねぇ」海羽が拝むように手を合わせてくる。「ガチでそういう感じとは思ってなくてー」


 とはいえ、海羽に屈託はない。

 いいよ、やましいことがあるわけでなし、と答えると、陸人がふと思い出したかのような口ぶりで聞いてきた。


「もしかしてあの映画観てくれたんか?」


「いや、まだ観てない──」けど、と手に提げたレンタルビデオ屋の袋に一度視線をやってから、「たぶん今夜、愛理と二人で観る」


 双子は無言でニヨニヨ顔を向けてきた。







 天方姉弟と別れてスーパーを出た。まだまだ日の高い初夏の町に踏み出して家路に就く。

 と、待ちかねていたとばかりに愛理が切り込んできた。


「面食いというのは、どういうことですか」


 中学生のころちょっといい雰囲気になった女の子がたまたま学校のマドンナ的存在だったのを大げさに言ってからかってるんだよ──そんなふうに俺は釈明した。


「ふうん」


 信じているのかいないのか、拗ねたように答える愛理の機嫌を取ろうと俺は、優しい言葉を並べ立てる。


「いい雰囲気っていってもキスすらしていないんだけどな。中学生のおままごとだよ。主観ではもう二十年近く前の話さ。その子の存在自体、言われるまで忘れていたくらいだ。高校も全然違うし」


 肩に下げた保冷バッグが、アスファルトを踏みしめるたびにガサッ、ガサッと揺れるだけの、会話のない間があって、愛理はぽつりと言った。


「写真」


 冷ややかな声だった。「公立中のマドンナとかいうその小娘の顔、確認させてください」


 言葉の端々からぶっとい棘がにょきにょきと生えている。

 俺は内心で冷や汗を流しつつ答える。


「卒アルぐらいしかなかったはずだけど、それでいいか?」


 すると、雪女モードの愛理から放たれる、ひりつくような冷圧が和らいだ。


「もちろんいいですよ。ついでに裕也さんのも一緒に確認しましょう」


「それはちょっと恥ずかしいな」


「ふふ」愛理は向日葵のようなほほえみさえ浮かべた。「そんなこと気にしなくていいのに」


 ──よしっ。

 俺は最初から察していた。こいつ、俺の携帯に画像が保存されていないかそれとなく確かめるためにこんな要求しやがったんだな? と。

 普通の女が彼氏の元カノを気にする場合、自分と比べてどちらが美しいか魅力的かを確認したくなるものだが、愛理は違った……!

 そんなものは二の次三の次で、俺とその元カノに交流がないという現状においては、俺が未練めいたものを引きずっていないか、その一点だけが唯一の懸念事項……!

 自分の容姿がそこらの有象無象に劣るわけがないという絶対の自信があるからこその一点突破……!

 最近は愛理(ver.JKⅡ)ばかり見ていて忘れそうになるが、彼女も三十路過ぎの立派な淑女なのだ。鎌の一つぐらい掛けてしかるべきである。

 ──という推測が実際のところどの程度正しいかは定かではないが、不機嫌になられても精神衛生上よろしくない、俺は携帯のフォルダにある元カノとの画像──若気の至りR18的なものも多数含まれている──を早急に削除することを決めた。







「お勉強の邪魔をしてしまったので、ごはんはわたしが作りますよ。裕也さんはお部屋なりで休んでいてくださいな」


 というので素直に甘えさせてもらった。

 丁度よい頃合いになると、愛理から呼ばれた。ダイニングに下りると、一汁三菜のお手本のような食事──飲食店のチキン南蛮定食と遜色ない、あるいはそれ以上の出来の──がテーブルに用意されていた。 

 二人だけの食卓。

 交わす言葉が多いわけではない。静かなものだ。

 しかし、この沈黙が不思議と心地いい。ハマりがいい。


「相変わらずすごいな。あきれるほどおいしいよ。ありがとな」


 我知らず言葉にしていたそれに、愛理が口元を隠してほほえむ。

 そうして穏やかな食事が終わり、シャワーで汗を流してしばらくすると、


「映画を観ませんか」


 愛理がおずおずと言ってきた。俺の部屋だ。開けっぱなしのドアをノックして現れた彼女は、ライラック色の半袖短パンのパジャマに身を包んでいて、一方の俺はTシャツにジャージパンツを穿いている。

 暇さえあれば、勉強しているか、気分転換に筋トレかストレッチをしている、おもしろみのない人間の俺だが、机にかじりついて受験に備えなければならないほど成績に余裕がないわけではなく、つまりここで言う〈勉強〉にはより実践的なものも含まれる。

 今もアメリカの代表的な経済新聞のウェブ版を読み込んでいるところだった。

 金融界隈、世界経済の動向は、わずかな誤差はあれど、記憶にあるストーリーを忠実になぞっているようだった──某仮想通貨を買っておきたいという欲心が起きないでもない。もちろん買わないが。

 閑話休題。

 パソコンの時刻を見ると、午後九時になろうかというところ。

 視線を愛理に戻す。彼女もシャワーを浴びたのだろう、つるんとキメ細かな卵肌が血色の良い赤みを帯びていて、その瑞々しく健康的な色気に目がくらみそうにもなる。

 パジャマを押し上げる豊かな乳房やホットパンツから伸びるしなやかな脚に視線がいかないように気をつけつつ、俺は答えた。


「いいよ、観ようか」


 綻ぶ愛理の可憐さに、不覚にも見とれた。

 ハッとして、誤魔化すようにパソコンに向き直り、その電源を落とした。

 二人きりの映画鑑賞会はリビングで開催される。

 DVDをセットすると愛理は、リビングのソファーに身を沈めた俺の隣、シャンプーの香りやかすかに火照った息遣いを感じてしまうほど近くに、静かに腰を下ろした。所作の一つ一つに洗練された大人の色香が漂っている。

 顔を向ければ、愛理も同じように俺を見ていて、視界を満たしたその澄んだ美しさに、心臓が強く胸を打った──獣欲がひりついた。


「……」「……」


 言葉もなく見つめ合う瞬きが一回、二回とあって──俺はさりげなく彼女から視線を外した。大型の液晶画面に向ける。

 小さく息をつく音が聞こえた。

 愛理は俺とやり直したがっている。それはわかる。

 たしかに、時間に余裕のある学生のうちは上手くやっていけるかもしれない。

 だが、その後は?

 愛理はそのことについてちゃんと考えているのだろうか。

 以前と同じことの繰り返しでいいだなんて、そんなふうに考えているわけではあるまい。

 今から付き合えば俺が変わっていくはずという希望的観測?

 後先を考えない、まるで本物の高校生のような刹那的恋愛? 

 それとも、選択肢などないほどに囚われているのだろうか。かつて描いた未来予想図に。俺が見せてしまった幻想に。

 映画が始まる。







『ヨスガノウミ』


 というタイトルのその映画の導入は、穏やかなものだった。大学進学を機に上京した双子の兄妹が、アパートを借りて二人で暮らしはじめる、というただそれだけの退屈なシーンが続いた。至極、平和な日常だ。

 この時点では、青春ものか、純文学ないし中間小説風の何かだろうと呑気に構えていた。

 内容を知っているらしき愛理は、映画が始まるとそわそわしはじめていたが、せいぜい、若い時分にありがちな、独り善がりな優しさを見せつけ合うような青くさい情事がどこかにあるのだろう、ぐらいにしか考えていなかった。愛理は、いくつになってもウブなところが抜け切っていないのだ。

 風向きが変わったのは、開始から二十分ほどが過ぎたころだった。

 主人公の片割れ、双子の兄のほうがサークルの先輩と付き合いはじめた。で、兄とその恋人とで濡れ場が演じられた。それだけなら何もおかしくはないのだが、一般的なものに比べて長いのだ。アダルトビデオのような派手さはないが、芸術作品とも違う、妙にリアルで嫌な生々しさがあった。

 その次のシーンでは、今度は妹が兄の写真を見ながら自らを慰めていて、絶頂するまでノーカットで見せられた。

 映画には詳しくない俺でも流石に察した。これ、近親相姦ものだ、と。

 その後は、兄、妹、兄の恋人、妹の同級生の四人で爛れた四角関係が延々と続き、しかし最終的には兄と妹の純愛エンド風にまとめられていた。兄妹駆け落ち妊娠エンドである。ハッピーエンドかはわからない。あるいは、メリーバッドエンドかもしれない。

 総評としては、官能ものとしても恋愛ものとしてもハイクオリティーだが近親相姦を全力で肯定している点が人を選びそうだ、というものだった。

 愛があれば二親等血族としちゃってもいいよね? むしろどんどんするべき。なぜためらうのか? 愛があれば人は交わるものである。兄妹だろうと例外ではない。そこには何ら恥じる要素はないのだ!

 というような強めの思想がフィルムの向こうから聞こえてきて、観ていてとても疲れた。隣では愛理が顔を真っ赤にしてわたわたしていたし。ちょくちょくこっちを見てきていたし。というか、エンディング曲が流れている今も、ちらちらと触れる、愛理の熱っぽい視線がくすぐったい。

 これ、家族と、まして兄妹と観るものじゃないよな、と思う。天方姉弟はなぜこんな尖った映画を勧めてきたのだろうか。たしかにストーリー自体は悪くなかったが……。

 などと思案──困惑しているうちにエンドロールが終わった。

 すると、愛理がためらいがちに口を開いた。


「あ、あの、わたしたちも、その、兄妹ではありますよね?」

 

 俺は顔を向けて答えた。


「まぁ、そうだな」そんな感じは全然しないが。


「で、では、その、いいですよね……?」


「何が」


 愛理は、はにかむように唇をふにゃふにゃさせると、


「わたしも映画みたいに〈お兄ちゃん〉って呼びたいです」


 影響を受けてしまったらしい。


「好きにすればいいと思うけど」


 愛理は顔を明るくした。そして、


「おっ、おっ、おっ、おっ、おっ──」


 と唐突なオットセイの真似。「ちょっと待ってください」


「はい」

 

 緊張の面持ちの愛理は、一度深呼吸をしてから、


「お、おにぃ、ちゃん」


 上目遣いに俺を見つめて途切れ途切れに言った。

 しかしすぐに両手で顔を覆ってしまった。よほど恥ずかしかったのか真っ赤になって、「ぅぅ~」と低く悶絶している。


 一方の俺は、なかなかどうして悪くないな、と感慨に浸っていた。

 思えば、一人っ子の俺は小さいころは兄弟姉妹というものに憧れていた。兄弟姉妹で──もとい兄弟姉妹と遊んで賑やかに過ごす夜というのは、きっと楽しいのだろう。


「愛理、もう一回頼む」


「ぅぅ……?」愛理は覆った指の隙間から目を覗かせた。「お、お兄ちゃん」


「もう一回」


「お兄ちゃん」早くも慣れてきたのか、手を下ろしてするりと淀みなく答えた。


「もう一回、今度はもっとかわいらしく」


「お、おにぃちゃんっ」少し鼻に掛かった甘めの声だった。


「次はツンデレ妹風で頼む」


「お兄ちゃん」不機嫌そうにも聞こえる、見下すような冷たい口調で表現したようだ。


「じゃあ次はクーデレ風で」


「……お兄ちゃん」ボリュームとトーンを落とした言い方。


「そうだな、じゃあ次は……」


「お兄ちゃん……?」訝しげな、そしてわずかに不満げな響きが加わった。


「あ、そうだ」俺は思いついた。「脱衣室でのラッキースケベ風でお願いします」


「お兄ちゃんっ!」と、これはちょっとおこっている。


「上手いなぁ」


「これは演技じゃありません!」ぷんすかしている。「義妹のお兄ちゃん呼びで遊ぶの禁止です!」


 結局、お兄ちゃん呼びはお蔵入りとなった。







 その晩、床に就いた俺は、常夜灯のオレンジ色も淡い天井を眺めながら、ぼんやりと天方姉弟のことを考えていた。俺に映画を観させたかった動機は何か、と。

 まず、単なる布教の可能性は低い。観せたいにもかかわらずアピールポイントである上質なストーリーに言及していなかった点が矛盾する。

 では、何ならありうるか。

 第一に考えたのは、単なる悪戯。

 家族のいるリビングで性的な映画を観て気まずい思いをしている人間は滑稽だ。傍から見る分にはおもしろいだろう。

 また、影響を受けた俺が、義妹つまりは愛理を変に意識するようになっても、それはそれでおいしい。笑い話の種になるから。

 剽軽者の気のある天方姉弟なら以上のように企んでも不思議はない。単なる悪戯説は十分にありうるし、現実的だ。

 だが、ひらめいたシナリオはもう一つあり、そちらはかなり突飛なものだった。

 つまり、仲間を増やそうとした。

 かねてより恋愛関係にあった天方姉弟は、同じく兄弟姉妹という立場で恋人関係にある仲間が欲しかった。そこで、最近義兄妹になったという俺たちに目をつけた。同居しはじめたばかりの俺たちなら近親相姦特有の抵抗感もないに違いないと見たのだろう。

 とはいえ、確実性は低い。近親相姦ものの名作を観て影響を受けてくれたら儲けもの、程度の蓋然性の低い、いわゆるプロバビリティの犯行だった。

 しかし、この憶測には論理の飛躍めいた部分がある。

 血縁者による本物の近親相姦のハードルは、けっして低くない。生物の本能が拒絶反応を示すのが本来の姿で、それが機能不全を起こす確率はゼロに等しい。つまり、前提に、破綻に近いレベルの瑕疵があるのだ。

 では、やはり単なる悪戯だったのか。

 そう結論づけようとして──ふと、記憶の底から浮かび上がってくる光景があった。

 天方姉弟の両親の顔だ。二人とも海羽と同じぱっちりとした二重瞼の瞳だった。

 しかし、陸人だけは違う。彼だけ劣性──のちの潜性──遺伝の一重瞼だ。

 二重瞼の両親が共に一重瞼の遺伝子を持っていた場合、確率的にはおよそ四分の一で子供が一重瞼になる。現実的な数字だが、こうは考えられないだろうか。

 陸人には実は血の繋がりがない。

 何らかの事情で、天方家の実子でないにもかかわらず実子として虚偽の出生届が出されていたのだ。出生証明書の偽造が必要だが、医師の協力があればそれも容易い。あるいは、受理する役所側の協力でもいい。

 ある時その事実を知った二人は、やがて一線を越えてしまった。

 しかし、表向きは実の双子。誰にも言えない関係だった。

 その、孤独にも似た秘密の関係を誰かと共有したくなっていたところに、俺たちの親の再婚話が聞こえてきた。

 そして、ワンチャンあんじゃね? と魔が差してけしかけた。


「……ふっ」


 自分の想像力のたくましさに鼻で失笑してしまう。

 これは解釈の一可能性にすぎない。その可能性以外を理詰めで徹底的に潰していない以上、間違っても推理とは呼べない。ただの憶測だ。

 ま、あいつらのことだから悪戯だろうな、と思う。

 現実的にはそれしかない。

 そうして推理ごっこを切り上げた俺は、やがて眠りに落ちた。







「おっはよ!」


 週明けの月曜日、登校した俺が、教室に向かって廊下を歩いていると、脅かすような勢いで両方の肩を叩かれた。海羽だ。朝から元気なことだ──おじさんにはまぶしいくらいだよ。

 歩きながら話す。


「あの後、愛理ちゃんの機嫌直せた?」


「何とかな」


 俺は愛理との恋の駆け引きライアーゲーム(笑)について説明する。その間に教室に着いた。俺は自分の席に座り、海羽は近くのおとなしい子の机──今は不在だ──に腰掛けた。


「あははっ」海羽は白い歯を見せて笑った。「素直に騙されてくれる愛理ちゃん、かわいーね。悪賢い裕也が、脅しのネタに使える写真を消してるわけないのにねー」


「あれで意外と油断ならないけどな。妙な推理力を発揮することもあるし──ていうか、人のことをやべーやつみたいに言うのやめろ」


 海羽は俺の突っ込みを当たり前のようにスルーして、


「ねね、愛理ちゃんの連絡先教えてよ」


 と屈託なく言った。


「本人に聞いてみるよ」


「ありがとー」


 それから海羽は、ここからが本題とばかりに嫌らしく口角を上げて言った。


「で、例の映画は観たの?」


「観たよ」


「どうだった?」海羽はニヤニヤしている。盛り上がったでしょ? と言わんばかりだ。


「ストーリーと演技は良かった」


「うんうん、あれは名作だよね──で?」


「愛理がお兄ちゃん萌え? みたいのに目覚めかけた」


 あはー、と笑っていた海羽の顔が、きょとんと素面に戻った。「目覚め『かけた』?」


 俺はお兄ちゃん呼びお蔵入りの経緯を説明した。


「何やってんのよー」海羽はあきれ笑う。「そのまま背徳の兄妹プレイに持ち込めるとこだったのにさー」


 愛理ではないが、ふと思いついて鎌を掛けてみることにした。


「別に愛理のこと狙ってるわけじゃないからな? 寝たことも、それこそキスすらしてないし」


 天方姉弟は、スーパーの一件で俺と愛理が互いに憎からず想い合っていると勘違いしている。仲間を増やしたいと思っていた場合、ここでそれを否定されたら、喜びからの落差で、取り繕おうとしても多少の動揺は見せてしまうのではないか。と思う。


「えー何でー?」海羽は目を見開いて、しかし応えたふうはない。「愛理ちゃん鬼かわいーのに何が気に入らないの?」


「重そうなとこがちょっとな」


 あっはー! 

 今朝一番の大きな笑みを飛ばして海羽は、おかしそうに声を高くして言った。


「それ、百パー、ヤリチンの台詞ー! 気軽にヤれて後腐れないのがいいってことでしょ? あははははっ、裕也ひどすぎー!」


 みんなの視線が痛い。

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