星屑ほしくず高校のすぐ近くにあるコンビニが俺のバイト先だ。周りには飲食店や雑居ビル、店舗、ホテル、マンション、住宅などが節操なく建ち並んでおり、午後十時を過ぎた現在も客足は途切れていない。

 が、バイトが終わった俺には関係ない。

 俺はバイトの先輩が働くのを尻目にコンビニスイーツを物色していた。何となく甘いものが欲しくなり、買って帰ろうかと思ったのだ。

 すると、ふと、日向のような──天日干しした布団のような優しい香りがした。横目で隣を見ると、鮮やかなオレンジ色の髪がまず目についた。すらりと背の高い青年がシュークリームに熱視線をそそいでいる。

 風邪でも引いているのかマスクをしているが、その風貌からでも誰かわかった。狙い澄ましたかのように絶妙なタイミングに俺を合コンに誘い、愛理との出会いをもたらしてくれたあの友人──若かりし日の神埜かみのめぐるだ。

 とはいえ、現時点では他人同士である。声を掛ける理由もない。

 神埜はオレンジ髪オーケーの高校なんだな、と思いつつ視線を棚に戻すと、彼はシュークリームを手に取って身を翻した。

 と、急停止した足を踏ん張るような靴音とレジ袋が揺れる音が同時に立った。


「あ、ごめんなさい」甘美に響く少し高めの声は神埜のものだ。


 見れば、神埜と同じく白いマスクをした若い風体の女性客が、レジ袋片手に神埜のすぐ目の前に突っ立っていた。向き直り様にぶつかりかけたようだった。茶色に染めた長めのボブカットが、かすかに乱れている。


「いえ、大丈夫です。こっちもすみませんでした」


 女性客はそっけなく答えると、出入り口へ向かおうとする。


「ん?」


 神埜は何かに気づいたような声を洩らした。彼の視線の先を追うと、床に、ビビットな赤色のハンカチが落ちていた。女性客が落としたのかもしれない。

 神埜はその背中に声を投げた。


「ちょっと待って!」


 間一髪、女性客は自動ドアの間で立ち止まった。

 ハンカチを拾って神埜は、ぱぱっと埃を払つつ、振り返る彼女に、


「このハンカチ、あなたのじゃないですか?」


「あっ──」


 と女性客が声を洩らした、その瞬間、彼女のしたマスクの片側が、左耳のゴム紐が外れてしまったようで、はらりと垂れ下がった。

 女性客は、まずい! とばかりに慌ててマスクを直すと、たたたと駆け寄ってきて、


「すみません、ありがとうございます」


 と口早に言ってハンカチを受け取った。そして、逃げるようにコンビニを出ていってしまった。

 俺と神埜は顔を見合わせた。

 神埜が口を開いた。


「今の人って、ドールズの十六夜いざよいのぞみですよね」


「に見えましたね」俺は首肯した。


〈ドールズ〉とは、男性からは絶大な、そして女性からもそこそこの人気を博する、業界最大手事務所の女性アイドルグループ、〈Overdollsオーバードールズ〉の略称で、十六夜希はそのセンターを務めている。要するに、彼女は二〇〇九年現在の女性アイドルの頂点である。ちなみに、本名らしい。

 神埜は夥しい女を虜にしてきた人懐っこい笑みを目元に浮かべ、


「すごくかわいかったね」


 そう言う神埜も、どのシーンを切り抜いてもバズりそうなほどの美形だ。


「マスクしてるけど、君も相当なイケメンなんでしょう? 君ならワンチャンあるんじゃないすか」俺も軽口を返す。


「あちゃあ、連絡先渡しとけばよかった」などと言いつつ神埜は、特段悔しそうでもない。


 じゃあ僕は行くよ、とシュークリームをかざしてレジに向かおうとする神埜に、ああ、とおざなり応じて俺は、スイーツの棚に顔を向けるでもなく思案に沈む。

 ドールズは今年をもって解散となる。

 十六夜希がファンの男性に殺されたことが原因だ。

 その男は、独占欲だか執着心だか、そういった赤黒い感情を暴走させてしまったようだった。十六夜は事件当時飲酒して酔っており、そのせいで人けのない夜道で近づかれても気づかなかった、あるいは警戒できなかったのだろう、とニュースでは推測を語っていた。

 そして、何の因果か、十六夜が残虐極まりない仕打ちを受けるのは今夜なのだ。

 だから何だ、というところではある。

 未来知識チートを利用してアイドルを救うペテン師ヒーローになるつもりなんてこれっぽっちもなかった。見殺しにする予定だった。

 当時大々的に報道されていたせいで犯行の時間と場所は脳に刻み込まれていて、助けようと思えば、おそらくはできる。

 が、何のメリットもない。彼女が死んでも何のデメリットもない。せいぜい、報道が一時そればかりになって辟易するくらいだ。

 冷たいと詰られようが、何の関係もない他人に無償で分け与える優しさを俺は持ち合わせていない。

 しかし……。

 神埜の存在が、その判断に待ったを掛けていた。

 彼は不可思議な運命をまとっている。彼の関わった物事のほとんどは、神が組み立てたかのように上手くいく。

 今、このタイミングで十六夜の顔を俺が見たことにも何か意味があるのではないか。

 そんな空想が鎌首をもたげていた。

 元々、オカルトの類いには不可知論の立場を採って肯定も否定もしていなかったが、逆行を体験している身からすると、その実在を認めたくもなる。


「えっ、相良君、これ買うの?」


 レジに着く先輩に商品の傘を差し出すと、晴れていて雨の気配が皆無だからだろう、彼は訝しげにそう尋ねてきた。


「ええ、急に必要になったんです」


 武器がね、とは口の中だけで転がした。







 俺が現場──十六夜の自宅だという大規模マンションの近くの小路に着いた時には、すでに修羅場は始まっていた。一つ先の街路灯の下、犯人とおぼしき男性が、十六夜に向かって包丁を突き出すところだったのだ。

 すんでのところでかわした十六夜だったが、尻餅を突いた。

 淡い明かりに照る十六夜の大きな瞳は驚愕と恐怖がまじり合った色に染まっていて、声を上げることさえできないようだった。


「やめろっ!!」


 俺が怒声を飛ばすと、犯人は振り返った。どこにでもいる普通の、どちらかというと男前といった程度の特徴しかない若い男だった。

 邪魔が入った以上は逃走を図るだろう、と思っていたのだが、犯人は駆け寄る俺に構わずに逆手に持った包丁を十六夜に向かって振り上げたではないか。

 何が何でも今ここで殺してやる、という強い執念がほとばしっている。

 いったい何があったんだよ。

 などとあきれている場合ではない。俺は、やったことはないが、槍投げの要領で傘を放った。大丈夫、俺には神埜様のご加護がある、と半ばやけくそになって。

 しかし、というか、果たして──


「い゛っ!」


 奇跡的に男の右手に命中した傘が包丁を弾き飛ばし、男は悲鳴めいた声を上げた。包丁と傘は住宅の塀の向こうに落ちた。彼は、利き手を痛めたうえに凶器も失ったとあっては流石に不利だと判断したのか、脱兎のごとく逃げ出した。あっという間に夜闇やあんに消えた。

 俺は十六夜に駆け寄ると、


「大丈夫ですか」


 イレギュラーなイベントをこなす倦怠感のまつわりついたテンションで尋ねた。

 ハッとしたように一度体を震わせると十六夜は、ようやく声を出した。


「だ、大丈夫です」しかし彼女は立ち上がろうとしない。「ご、ごめんなさい、力が入らなくて」


 腰が抜けたのか。

 大コンプラ時代の令和を生きていたおじさんであるところの俺は、面識すらない女性に手を差し出して起き上がらせたり、そのまま体を抱き支えたり、などという愚行はしない(恐ろしくてできない)。


「落ち着くまでそのままでも大丈夫ですよ」


 え、この流れで助けてくれないの? というような意外そうな目つきになった十六夜を努めて無視して、


「あなたから警察に電話してくれますか」


「……で、でも」十六夜はためらう。「こんなこと、事務所に相談してからでないと……」


「はぁ?」俺はあきれた。「あなた、殺されかけたんですよ? そのきれいな顔は原形がなくなるまで切り刻まれて、体だって穴だらけにされるところだったんですよ? 子宮は引きずり出されるわ、膣は抉り取られた挙げ句、口に詰め込まれるわ、乳房は切り取られて食べれるわで、日本の猟奇犯罪史に残る凄惨な肉塊になるところだったんですよ? 早く警察に介入してもらって犯人を捕まえてもらわないと」


「な、何でそない具体的なん……」十六夜は引きつつ尋ねてきた。


「……関西弁?」


「あっ──」しまった、というように十六夜は、声を零した。「関西出身なので、たまに出てしまうんです」


 そういえば、と思い出した。十六夜は、たしかドールズで唯一の大阪生まれだった。ほかはみんな東日本だ。


「イメージに合わないから普段は抑えているんです。事務所がうるさくて」


 だそうだ。

 閑話休題。

 そんなことより警察である。行動を起こさない十六夜を見切って、自分の携帯で一一〇番しようとする。

 と、


「あかん!」


 十六夜はなおも難色を示す。

 何かあるのか、と考え──いくつかの事実が有機的に繋がり、一つの推理を形成した。


「今ってお酒入ってます?」俺は尋ねた。


「え? 飲んでないですけど」十六夜は不思議そうに答えた。


「ですよね」ということは、だ。「さっきの男はファンではなく顔見知りですね? おそらくはより親密な関係の」


 十六夜はびくっと体を震わせた。

 当たりか。

 バタフライエフェクトによる変化かと思っていたが、違ったようだ。

 つまり、メディアは十六夜の男性関係のスキャンダルを隠すために嘘を報道していたのだ。

 彼氏かセフレか知らないがそういう存在が犯人だったのに、ファンの男性が犯人だったという嘘。

 そのファンを無警戒に近づかせたことに整合性を与えるための、酔っていたという嘘。

 おそらく事務所が自身やドールズのイメージを悪化させないためにメディアや警察に圧力を掛けてそうさせたのだろう。

 タレントの管理と教育が行き届いていないからこういうことになる。ほかのメンバーもいかがわしい火遊びに耽っているのではないか──こういう疑念を持たれたら商品価値が下がる。

 一方で、異常者による凶行の純粋な被害者であったなら、それほどイメージは悪くならない。それどころか、上手く演出できれば悲劇のヒロインとして山吹色の同情を集められる。仲間が惨殺されたけど健気にがんばるから豚さんたちはこれまで以上にお金を落としてね♡ といった具合に。

 そして、このシナリオの場合、裁判で犯人が、「自分は十六夜希の恋人だった」と主張しても、ストーカーや厄介ガチ恋勢によくある妄言と切って捨てられる。

 あるいは、死体の猟奇的な有様ありさまも、異常者による犯行とミスリードするための嘘だったのかもしれない。

 ご苦労なことだ、と思う。結局は、主要メンバーの大半が自主的に引退を申し出たことで解散せざるを得なくなるのだから。

 なぜかはわからないが、もしかしたら人の、仲間の死さえも嘘で塗り固めるアイドル業界に嫌気が差したのかもしれない。

 俺は片膝を突いて十六夜と目線の高さを近づけた。


「深くは聞きませんが、男女のいざこざが原因なんでしょう?」


 十六夜は弱々しくうなずき、そのままうつむいた。「あたしが悪いんです。彼氏がいても、寂しくなると我慢できなくてすぐ体の関係を持ってしまうんです」


 なるほど、先ほどの男が彼氏で、十六夜の浮気に激昂して凶行に走った、と。

 三角関係の末の修羅場か。ありがちだな、という感想しか湧かないが、


「見るからに大変な仕事だから、そのストレスもあるんじゃないですか。弱っていると誰かにすがりたくなるものです。そういうときには、あまり自分を責めないほうがいい。余計に苦しくなって立て直せなくなってしまいますよ」


 適当に慰めておく。

 十六夜が顔を上げた。ピーナッツ型の二重瞼の瞳に高校の制服を着た俺が映っている。

 その姿がじわと潤んだ。

 かと思ったら、十六夜は、ひくっ、ひっく、としゃくりを上げて泣き出してしまった。


「優しいぃっ、ごみぇんなしゃい、あたしぃ、ひくっ、アイドルやにょにっ、ふしだりゃでぇ」


「本当にな」俺は大いにうなずいた。「身銭を切って応援してるファンの方が知ったらどう思うかね」


「……ふぇ?」十六夜は目をしばたたいた。


 あ、やべ、つい本音が。

 んんっ、と大げさに咳を払って俺は、


「それで、これからどうしましょうか。警察は嫌なんでしょう?」


 十六夜は微妙に納得がいっていなそうな色を浮かべつつ涙を引っ込めて、


「うん、何かあったらすぐに連絡しろって言われてて」


「連絡したらどうなるんだ?」


「わかんない。社長が何とかするんじゃない」


「怖っ」


 十六夜は、くすっと笑って、「そんなことあらへんで──あ、また間違えた」


「もうずっと関西弁でいいよ。もはや俺の中の君のイメージはふしだら関西娘で固定されてるんで」


「やだもうっ」十六夜はしんなりと叩くように俺の腕に手のひらを置き、その手を乗せたまま、「そないなこと言わへんの」


 令和おぢの俺は、あらぬ疑いを掛けられぬよう細心の注意を払ってその手を押し返そうとする──ところが、十六夜は俺のその手を両手で挟んで包み込んだ。

 心臓が跳ねた。

 この子、距離感バグってないか? 地雷臭がすごくて怖いんだが、という感じの戦慄なのだが、十六夜は何を勘違いしたのか、


「あんまり女の子慣れしてへんの?」


 と、からかうような上目遣い。


「まだ高二なんで」バツイチですが。高校のブレザーに意識を投げつつ、「見てのとおり星高生ほしこうせいですよ」


 星高というのは公立星屑高等学校の略称だ。進学校で、俺はそこに通っている。


「ほぉー」おもしろがる様子で、「四個下なんやぁ」


 嘘です。中身は三十四歳、十三個上のおじさんです。


「ねね」十六夜はいよいよ悪ふざけがすぎてくる。しなだれかかるようにして俺の耳元に口──といってもマスク越しだが──を寄せ、


「もしかしてまだ女の子としたことないん?」


 と、ささやいた。

 ぞわわーっと肌が粟立った。


「気持ち悪っ」


 思わず飛び出た言葉に、十六夜はようやく自分が非常識なことをしていると理解したようで、おびえるように肩を強張らせると、


「あ、あ、あ、ごめっ、ごめんなさいっ、あたっ、あたし、距離感わかれへんくてっ」


 涙ぐんでひどく狼狽しているところを見るに、悪気はないのだろう。余計にタチが悪いとも言えるが、不憫でもある。


「いや、俺も言葉が悪かった。びっくりしてきつい言い方をしてしまったんだ。ごめんな」


「ぅぅ……」十六夜は低くうなると、ダムが決壊するように、「優しいぃ~! あたしこんなやのにぃっ」そして、ひしと抱きついてきた。「好きぃ~!」


 やっぱり気持ち悪いな、とか、暑苦しいな、とか、このルックスでこのノリだと経験人数エグそうだな、とかいろいろ思ったが、


「もう歩けそうだな。とりあえず家まで送るよ」


 俺は帰るから後のことは勝手にしてくれ、という意味である。


「あーっ!」十六夜は心底楽しそうに声を明るくした。「それはあかんで? 手っ取り早くあたしで初体験済まそうとしとんのやろ? お見通しやからねー」


「……」


 トップアイドルの顔面を思い切りぶん殴ったらさぞ気分爽快だろうな、と思った春の夜なのであった。







 後日、ふしだら関西娘に高校からの帰りを出待ちされた。校門の所だ。


「ゆうくん~! 会いたかったぁ~!」


「俺は会いたくなかったよ」


 怪訝と好奇心のまじった周囲の視線もお構いなしにスライムのようにへばりついてくる十六夜──マスクとベルのような形の帽子で変装している──を引っぺがし、事情を聞くと、


「事務所から、ジブン、アホやねんから色恋は絶対あかんておこられてぇ」


「それと俺と、どう関係してるんだ?」


「あたし、ゆうくんしか友達おらへんねん。そやから恋愛対象と絡むの禁止されたら仕事以外で話す人おらんくなるねん。そんなん死ぬて。寂しくて死んでまうて」


「それくらいで人は死なないよ。あと、友達ではない。面識があるだけのただの他人だから」


「拗ねてるん? 気のないそぶりで、ホンマはあたしのこと本気やったん?」


「本気であきれてはいるかな」


「照れんでもええやん──でも、ごめんなぁ、ゆうくんは恋愛対象やないねん。友達、てか、おとん? おにい? そんな感じやねん。どっちもいてへんからようわからんけど」


「いざよ──」名前を呼んだらまずいか、と咄嗟に気づき、「ふしだらさんも父親がいないのか」


「アホ」ぺしっと軽く腕を叩かれた。「略すんやったら前を削ってや。それ、もうただのドスケベやん」


「ほぼ正解だろ」


「ガチもんの清楚清純系正統派アイドルに何てこと言うねん」


「自称かつ他称なのに実態とかけ離れてるの何かのバグだろ」


「ほんまそれ」


 そう言ってガチ恋詐欺師こと十六夜希は、悪びれる様子もなく楽しそうにころころと笑った。

 携帯を見ると、十六時になろうとしていた。


「悪いが、これからバイトなんでそろそろ行かなきゃならないんだ」


 一転、十六夜の顔は、マスク越しにもはっきりとわかるほど濃い絶望の色に染まった。


「嫌や嫌や、せっかく会えたのに何でそない殺生なことするん? もっと構うてや」


「無理。バイトでも仕事は仕事、やむを得ない事由もなく休めないし、休みたくない」


「あたしと何かしとったほうが絶対楽しいて。バイトなんかええからどっか遊びに行こ」


 責任感皆無の自己中心的な発言に、小娘相手だとわかっていてもイラッと来てしまい、我知らず舌打ちが洩れた。

 十六夜が、びくっと震えた。俺を見る瞳に明確なおびえが浮かんでいた。


「あ、あぅ、ぃやぁやもう、おこらんといてぇ」おもねるような声色で言い──「あっ、せや」と何やらひらめいた様子。「これやっちゃうとみんなすぐ冷たなるからあんまやりたないんやけど」などとぶつぶつやりつつ、ハイブランドらしきバッグからそそくさと長財布を取り出した。


 おいおいマジかこの人、と、たじろぐ俺の予想どおり、


「バイト代はあたしが払うから、今日は一緒におってや」


 とりあえず三万ぐらいでええ? と奇妙に明るい声で諭吉さんを三枚差し出してきた。ぎこちない笑みを潤んだ瞳にたたえて。


「うおっ!」


 これは俺の声ではない。遠巻きに通り過ぎようとしたにもかかわらず不運にも下品な現ナマを目撃してしまった男子生徒のものだ。

 その彼はさっと顔ごと目を逸らし、逃げるように足早に去っていく。ヤバい場面だと思ったのだろう。気持ちはわかる。


「いらないから仕舞ってくれ」


「あ、あ、せ、せやんな、これっぽっちじゃ足りへんよね」


 へら、とした笑いを吐いて十六夜は、慌てて長財布を開く。

 その手を財布ごと掴んで止めた。

 不安に押し潰されそうな幼子を思わせる痛々しい瞳が俺を見上げていた。


「わかったよ」俺は溜め息まじりに言う。見かねて、という感情が近いだろうか。「休むのは無理だけど、連絡先を交換しよう。バイトが終わったら、少しなら話し相手になるよ。だから、ドルオタのイカくさい情念の染みついてそうな金を渡そうとするな」


 十六夜の顔は、テレビでは見たことがないくらいまばゆく輝いた。


「ゆうくんっ! あたしは信じとったでぇ~! ゆうくんは暗黒時代の量産型投手とはちゃうんや!」


 そして、すかさず抱きついてくる。密着したまま上目遣いに、


「何時に終わるん? 近くで待ってたほうがええやろ?」


「家に帰ってから電話で対応するための連絡先交換なんだが」


 という俺のぼやきは聞こえていないようで、


「せや! 終わるまでゆうくんのコンビニで立ち読みしてれば寂しないし、一番ええやんな?」


 と、はしゃいでいる──テンション、ジェットコースターだな。

 

「『ええやんな?』じゃねぇよ。そんなのされたら出禁だって。つーか離れてくれ」


「嫌や! くっつきたいんや!」


 腰に回された腕がぎゅうと締めつけてくる。


「はぁ」もう何度目の溜め息だろう。「少しだけだぞ」


「えへへ、見込んだとおりや! 何だかんだ甘いゆうくん大好き~!」


 十六夜は、メイクを付けてやる、とばかりに俺の鎖骨の辺りに顔をぐりぐりとこすりつけてくる。

 絶対に深入りしてはいけない地雷女だと理解していても受け入れてしまったのは、トップアイドルというトロフィーに魅力を感じたからでも、若い女特有の柔らかくも弾力のある瑞々しい肌に劣情を催したからでも、もちろん芸術品のような美貌に恋をしてしまったからでもない。

 歪な心への哀れみ。

 しかし一番は、神埜が引き寄せる巡り合わせを信じてしまっていたからだ。

 十六夜との縁──コネクションにも意味があるはず。その考えを打ち消せなかったのだ。

 まぁでも、仕事優先は変わらないが。


「はい、終わり」


「嫌や! まだ離れたない!」

 

 アイドル業で鍛えた腕力を駆使してまつわりついてくる十六夜を、しかし俺は無理やり引き剥がした。性差万歳である。


「何でやぁ」十六夜が涙目で哀れを誘ってくる。「あたしの体、好きやないんか? いい感じにふっくらしとったのにぃ」


 泣こうが喚こうがリスカされようが唐突に下ネタをぶっ込まれようが、俺は仕事に行く。仕事を理由に理想の妻を捨てた男を舐めてもらっては困るのだよ。







 翌日、担任に生徒指導室に呼び出された。ママ活──売りを疑っているらしかった。場合によっては母親にも連絡を入れるという。

 人生初の生活指導がこんな形になるとは、神埜さぁ、話違うくない? お前、ハッピーエンド請負人じゃなかったのかよ?

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