一日花

いとう

アサガオの花

 「ねえ、知ってる?」と、ほのかは僕に聞いてきた。

それはもう、六年前のことで、僕たちはまだ小学六年生だった。

学校の校庭のすみの花壇で、ランドセルを背負った僕たちは、きれいなアサガオを眺めていた。もう九月になったというのに、外は焼けるように熱く、だけど少しさわやかな空気で、心地よくもあった。あの頃の僕らは、毎日を生きるのが新鮮に感じられた。周りには、まだセミがチクチクと鳴いているはずなのに、それらがまるで春の鳥のさえずりかのように感じる。


その時のほのかの笑顔はまるで空に透き通っているように感じられたのを今でもよく覚えている。もう高校生になった僕は、あの頃を思い出すとき、自分が別人であるかのように客観的にその景色を思い出してしまっている。それが僕にはとても切なく、悲しく感じられた。



「ねえ、知ってる?」

「…なにを?」

「一日で花がしぼんじゃうんだって」

「アサガオのこと?」

「そう」

「なら、もうこの花は咲かないの?」

「ううん、次々に新しい花が咲くのよ」

「へー。ほのかって、そういうことよく知ってるよね」

するとほのかは嬉しそうに笑った。

「だからね、私たちはまた違う花を見れるのよ。こういうのを一日花って言うの」

僕はそんなことは知らなかったのですっかり感心してしまった。

「何だか悲しいね」と僕は言った。

ほのかは「でも、次々と新しい花を咲かせるなんてすごいと思わない?」と言った。

それもそうだとほのかの言うことに僕は納得してしまっていた。

「そろそろ帰ろうか」と、僕が言いほのかが後から僕の後をおいかけた。



 あの頃の僕らは、なにをするにも一緒だった。家が近かったというのもあるかもしれない。帰り道はいつも二人で帰った。寄り道をしてみたり、一緒に街を少しだけ探検してみたり、まさに一心同体と言える関係だった。そんなんだったからクラスでは僕たちは、時々からかわれることもあった。


 ある日こういうことがあった。僕がトイレから出て教室に戻ると、教室がなぜか急に静かになった。ほのかが、真っ赤な顔をして席に座り、うつむいている。黒板には、相合傘にそうまという僕の名前と、ほのかの名前が書かれていた。周りではひそひそと噂が聞こえてくる。僕も恥ずかしくて顔が真っ赤になったけど、黒板まで走っていきその絵を消した。チョークの匂いが鼻を刺す。そして、ほのかのやわらかい手をにぎり、必死に僕たちは教室を逃げるようにして去った。からかわれたことが、悔しくて、恥ずかしくもあった。だけど、ほのかの手を握れたことが、少しだけ僕は嬉しくて笑みをこぼしていた。

後ろを見ると、ほのかも顔を赤らめ、笑っているのが見えた。

クラスでは僕たちは浮いた存在だったかもしれない。だけど僕には、ほのかさえいれば、毎日が楽しく感じられた。

 

僕らは、毎日放課後にはアサガオの咲いた花壇に集まるようになっていた。ここなら周りにからかわれることもないし、人もあまり来なかった。 僕たちはそこで、昨日の晩御飯は何だったのかとか、今日の授業は退屈だったとか、そういう他愛のない話をしていた。一時間経ったら何の話をしたのかを忘れてしまうぐらい、はっきり言ってどうでもいい話だった。でも、そんな毎日の放課後の時間は、僕たちにとっては特別で、その時だけは世界に僕たち二人しかいないんじゃないかと、そんな不思議な気持ちになった。


 まだ暑さが残るころ、いつものように僕らは、花壇に座って話をしていた。

「次の日曜日、一緒にあの川に行かない? きっと水が冷たくて気持ちいいと思うわ」とほのかが言った。僕たちの学校の近くには、住宅地に囲まれた、小学生でも水が膝までつからないような、浅い川がある。ほのかが言っているのはその川のことだろう。

「日曜日っていうことは、明後日?」

「そう。 きっと楽しいわ」

ほのかがこんなふうに遊びに誘ってきたのは初めてで、僕は少し驚いていた。でも、ほのかと川に行くのを想像すると、とても楽しそうだ。

「いいね。楽しそう」と僕が笑って返事をすると、ほのかは、パアっと顔を明るくして「分かった?明後日の日曜だからね」と言って、帰る方向は同じなのに、一人で先に走って行ってしまった。僕は「明後日の日曜日か……」と呟くと、たまらなく日曜日が楽しみに感じた。


 日曜日になり、待ち合わせ場所の、ほのかの家の前に向かうため僕は家を出た。今日の空は一面が灰色で、パレットの上で、絵の具の黒色と白色を混ぜた時の色をしていた。日光は感じないけど、湿度が高いのか、とても蒸し暑かった。

ほのかの家までは、歩いて十五分もかからないくらいの距離にある。僕たちが今日行く予定の川は、僕とほのかの家の間にあるので、僕はその川を通った。今日は蒸し暑いので、川にはたくさんの人がいるのではないかと思っていたけど、今日はほとんど人は見当たらなかった。

 予定通り十五分くらいで、僕はほのかの家の前に着き、背伸びをしてインターホンを押すと、ポーンという音が鳴る。数秒後インターホンから「はーい」というほのかの声が聞こえてくる。こういう風に遊びに行くのは初めてで、僕はほのかが出てくるまでの間、落ち着きなくソワソワしていた。するとすぐに、玄関からほのかが出てきた、ほのかは黄色い麦わら帽子を被り、きれいな白のワンピースに身を包んでいた。その姿が、肩まで伸びた黒い髪によく似合っていて、僕はついほのかから目をそらしてしまった。

「どうしたの?」と、声をかけられて、慌てて僕は「いや、何でもない」とごまかした。僕が「行こうか」と声を掛けると、ほのかは「うん!」と笑って頷く。


僕たちは川辺で夢中になって遊んだ。水辺を飛び回る小さな虫を追いかけ、冷たい水をかけあいながら笑い声を響かせた。時間なんて忘れて、ただその瞬間だけに心が満たされていくのを感じた。 

 

 僕が全身がびしょびしょになったころにはもう夕方になっていて、僕は川のほとりにアサガオが生えているのを見つけた。アサガオが生えている辺りは橋の影で、日陰になっていて、そこだけ夜になっているかのように見えた。

「見て、あそこにアサガオが生えてるよ」

「ほんとね。一本だけポツンとしててかわいそう」

「それに、もうしぼんじゃってるよ」アサガオの花びらはぐったりとうなだれ、砂漠に無理をして咲いた花みたいに見えた。

「前に話したでしょ。これもまた元気に咲くのよ」

「そういえばそうだったね」横にいるほのかは、アサガオを見て笑っている。だけど僕にはしぼんでしまうアサガオがやっぱりかわいそうだと、そう感じた。


 不意に、僕の鼻に水滴がポツンと降ってきた。僕が上を向くと続けてポツポツと水滴が落ちてくる。どうやら雨が降ってきたらしい。今日は朝から空の色の調子があまり良くない。だから川にあまり人がいなかったのかもしれないと僕は気づいた。

僕たちは川の橋の下で、雨宿りをした。雨もそこまで強いわけではないし、この川はとても浅いので、よほどの大雨でも降らない限り、水が岸まで届くことはなかった。

「雨、やみそうにないね」と僕が苦笑いを浮かべ、左に座るほのかに言う。

「そうね」とほのかが言った。

「でも、こういう時間わたし結構好きかも」

「こういう時間って?」川の水と雨で濡れた服がかわいてきて、僕は少し寒くなってきた。

「こうやって何にもせずにただ景色を眺める時間」

「僕たちがいつも花壇で座ってるみたいな?」

「そうかも。でも、今日はちょっと違う」

確かにそうだ。

雨が降っても変わらず川はサラサラと音を鳴らし、穏やかに流れている。

「今日は特別な日だね」と僕は言った。ほのかが、クシュンとくしゃみをした。夕方になって少し冷えてきた。それにほのかの服はそんなに濡れていないけど、川の水で少し冷えたのかもしれない。

「大丈夫?寒い?」僕が心配してほのかの顔を覗き込むようにして聞いた。

「えへへ…大丈夫よ」とほのかは言っているが明らかに寒そうに見える。僕はそこで、勇気を出して、ほのかの右手を僕の左手で握った。自分の顔が熱くなっていくのを感じる。ほのかの手は少し冷たかったけど、とても柔らかかった。前に握ったときには気づかなかった。それに前とは違う。心臓がドクドクと鳴っているのは同じだけど、今はとても穏やかな気持ちだ。ほのかは驚いて「どうしたの?」と僕に聞いてきた。

「ちょっとは温かいかなって思って…」僕は恥ずかしくてほのかの顔を見ることができなかった。ほのかは「ありがとう…」と少し笑って言った。チラッとほのかの方を見るとほのかの顔も赤く染まっていた。でも、その顔は笑顔で、その笑顔を見て僕は、ああ、これが好きになるっていうことなんだとそう思った。僕は、ほのかのことが好きなんだと気づいた。



 学校の鐘の音が鳴り、二十分休みが訪れたと安堵するとともに、まだ二時間目が終わったばかりなのかと憂鬱になる。今日は何となく気分が悪い。二十分休みになっても、僕はただ窓の外に映る景色と雲を眺めていた。するとほのかが僕に話しかけてきた。僕たちがクラスでからかわれてから、教室ではしゃべるのを避けて、放課後に花壇でしゃべるようにしていたので、僕は少し驚いた。

「ねえ、そうまくん」ほのかは、どこか暗い顔をしている。

「どうしたの?」と僕は、小声で返事をした。

「………今日はね、大事な話があるの」

「大事な話って?」僕は、不思議そうな顔をして聞いた。

「帰る時話すから…」そう言ってほのかは今にも泣きだしそうな顔をして、教室を出て行ってしまった。ほのかのあんな顔を見たのは初めてだった。これはただ事ではないと、僕も薄々察していた。それからは、授業にも集中出来ず僕は、ずっと窓の外を見ていた。ほのかのあの泣きだしそうな顔を思い出すと、窓の外の雲が僕を押しつぶしてしまうような、そんな気がした。



 放課後になり、僕は急いで花壇に向かった。僕の方が早くに教室から出たので、ほのかはまだ、着いていない。心臓がドクドクとなり、血流とともに、さらに不安が押し寄せてくる。この見慣れた花壇の景色も、今は別の世界の物のように見える。深呼吸をして落ち着くと、僕は花壇に腰を掛け、ほのかを待った。

ほどなくして、ほのかがやってきた。さっきと変わらず暗い顔をしている。僕が慌てて、「それで話って何?」と尋ねると、ほのかは、まるで話すのを拒むように、さらに顔を暗くしてゆっくりと花壇に腰を掛けた。

「私ね、引っ越さなきゃならないの」

「………え?」

「外国に行くの」僕は驚きのあまり、眩暈がしてきた。

「外国って……どこに行くの?」ほのかは、聞いたこともない地名を話していた。そこはまるで、世界の果てのように僕には聞こえた。

「………いつ、引っ越すの?」

「………明日」

「明日!?」僕はさらに驚いて、ほのかの方を向いて立ち上がった。

「そんなのおかしいよ! だって先生だって何も言ってなかったじゃないか」

「私がお願いしたの。クラスのみんなには、言わなくていいって」ほのかは、みんなの前に立ったりするのが好きではない。それで先生に頼んでいたのだろう。

「でも、明日なんて………急すぎるよ」僕はほのかの顔を見ることができず、視線を地面に降ろした。

「ほんとはね、一ヶ月ぐらい前から決まってたの。……でも言い出せなくて」しゃべるうちに、ほのかの声はどんどん薄れて、ついに涙を流し始めた。

「でもね、五年後にはお父さんの仕事が終わって、また同じ家に帰ってくるんだって」ほのかは、涙を拭きながら言った。

「五年後………」と僕は呟く。小学生にとってはあまりにも長い。それこそ、永遠に感じられるほどに。

「これ、新しい電話番号とメール」そう言ってほのかは、僕にメモを渡した。そのメモは少し湿っていて、涙の匂いがした。

「また五年後会えるから……」そう言うと、ほのかも立ち上がって僕の方を見る。

「さよならじゃなくて……」ほのかの顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。

「また会おうね」涙の下に笑顔を浮かべてほのかは言い、僕に背を向け走り出してしまった。僕は泣くこともできず、笑顔で見送ることもできず、ただ下を向いて、ほのかに渡されたメモを握りしめることしかできなかった。


 僕は家に帰り、机にメモを置いて見つめた。やっと冷静になり、このまま別れてしまっていいのかと、そういう気持ちになった。僕はほのかに何の言葉もかけてあげることができなかった。このまま別れるわけにはいかない。ほのかは外国に引っ越すと言っていた。空港へ向かうためには、電車に乗らなければならないはずだ。幸い、駅は僕の家から歩いて行ける距離にある。僕はまだほのかに言わなければならないことがあった。明日は駅に行こうと、そう決めた。


 僕はその日一睡もしなかった。ほのかのことが不安で眠くなることもなかった。この時間なら、まだ始発の電車も出ていないはずだ。

太陽もまだ昇っていないころ、僕は家を出た。いつほのかが、駅に来るか分からない。そんな気持ちになり僕は走り出した。途中でほのかと遊んだ川を通り、駅へ向かう。そして、ほのかともう川に行くことはできないのかなと、悲しい気持ちになる。十分程で駅には着いたけど、空港に向かう電車のホームは、家とは反対の方向にあり、僕は踏切を渡らなければなかった。踏切を渡り、改札の前に着くと、僕はぜえぜえと、膝に手をつきながら辺りを見回した。まだ、誰の姿も見当たらない。僕は、近くにあったベンチに座りほのかを待つことにした。始発前の空は夏でも冷え切っており、遠くでカタンと音が聞こえるような気がする。暗闇の中で僕はただ、彼女を待ち続けた。


 

 あれから何時間がたったのだろうか、太陽が昇り、人も多くなってきた。母さんも、僕が家を抜け出したことに、そろそろ気付いているかもしれない。僕はただ空に浮かぶ雲を眺めて、ほのかを待った。



その時「そうま…?」という声がして、僕は目を見開き、跳ね起きた。辺りを見渡すと、ほのかが、僕の方を見て、驚いた顔で立っている。後ろには、ほのかの両親が大きな荷物を抱えているのが見える。電車が来るまではまだ時間があるらしく、ほのかの父親が、駅員さんに頼んで僕を駅のホームに入れてくれた。ほのかと僕はベンチに座った。ほのかの両親は気を使って、少し離れて会話が聞こえないところにいる。

「昨日はごめんね。何も言えなくて」

「いや、私も突然でごめんね。心の整理ができなくて」

僕たちは、これからのことを話した。ほのかはどうやら日本からの飛行機で十二時間もかかる国の、日本人学校に通うらしい。そして、五年後には必ず日本に帰ってくるということも言っていた。

「五年って長いね」とほのかが悲しそうに呟く。

「五年後には僕たち高校二年生だよ」

「同じ学校行けるといいね」

駅のアナウンスで間もなく電車が到着するというアナウンスが流れる。僕たちはもうすぐ離れ離れになる。それも五年間も。

「……私この電車に乗らないと」

「待って!」僕は、とっさにほのかの手をつかむ。その時のほのかの手は温かかったか、冷たかったのかよく覚えていない。僕は、ほのかに言わなければならないことがある。

「僕、ほのかのことが好きだ」もうすぐほのかはどこかに行ってしまう。その前に言えてよかった。なぜか少しも恥ずかしくはなかった。多分お互いに好きだということが分かっていたからなんだと思う。まるで、決められていたみたいにその時、その場所で僕はそのセリフを言った。

少し驚いた顔をしていたけど「五年後にまた会おうね」と、ほのかはそう言って嬉しそうに笑った。

 

 電車がきて、ほのかとその両親が電車に乗り込む。ほのかは手を振っていて、僕も手を振り返す。ほのかの小さいからだは、すぐに扉に塞がれ、見えなくなる。

でも、僕は満足だった。五年後に、ほのかは返事をくれるだろう。

 そして僕は、五年後の自分を想像しようとする。けれども、よく分からなかった。身長は伸び、筋肉もつき、声も変わるだろうけど、それでもほのかは僕のことを好きでいてくれるだろうか。

帰り道、川の橋の下を覗くと、きれいな紫色のアサガオが、日に照らされ、美しく輝いていた。



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