あなたの座右の銘はなんですか?


「つかぬことをお伺いしますが。あなたは銘力者めいりょくしゃですか?」


「銘力者……?」


 時雨日々生しぐれひびきは、流師善彦ながしの口から飛び出した、得体の知れない言葉をただ復唱することしかできなかった。


「今は混乱しているようなので、あとで話しましょう」


「はぁ……」


 時雨の頭の中がこんがらがっていたところに、パトカーが駆けつけた。事件の概要を流師が警察に事細かく伝えている。

 

 しばらくして現場が落ち着きを取り戻し、男の子との別れのときが訪れた。


「お兄ちゃん、助けてくれてありがとう」


 涙が溢れそうなのを必死に我慢している子供が、時雨の手を握りしめてくれる。その小さな手は明るい温もりを宿していた。

 感じたことのない幸福感が時雨を包んだ。


(自分が、こんな自分がこの小さい命を守れたんか。ほんまに……ほんまに良かった)


 涙を我慢している子供の前で、時雨は泣く訳にもいかず、晴れた空を見上げた。潤む瞳から、雫が溢れ落ちないように。

 フゥーと、一息吐き、時雨は子供に向き直る。


「最後まで泣かんと偉かったな! カッコよかったで!」


「うん! パパがいつも男は泣いたあかん言うから、頑張ってん」


「ほんま! めっちゃ凄いやん! もう大丈夫やけど、気を付けてきぃつけて帰りや」


「うん。お兄ちゃん、ありがとう! バイバイ!」


 子供は警察に保護され、銀行内で拘束されていた母親と共に家に送られた。パトカーに乗れたことが嬉しいのか、窓から笑顔で手を振る子供に、時雨は少しぎこちなく、口角を上げ手を振りかえす。


「彼のことが心配ですか?」


 時雨の心情を悟ったように、流師がそっと語りかけてきた。


「いえ、なんか……少し、寂しくて」


「そうですか。ですが、今日という日は、あなたにとって、誇らしい一日になりましたね」


「なんでですか?」


「あなたは、あの小さな命を救ったことを誇らずに、一体何を誇るんですか」


 パトカーが姿を消した方を見ながら、流師は時雨の目を見て、優しく顔を綻ばせた。


 心の内に巣くっていたモヤが晴れていく、時雨はそんな気がした。無意識に誰かに言われたいと求めていた、そんな言葉を流師は時雨に授けてくれた。


「そうですね。なんか、色々ありがとうございます! あの子にも感謝しなくちゃ」


「晴れてくれて、良かったです」


「はい! ですね! 雨も止んでいるうちに、僕も帰らせてもらいます! 流師さん、本当にありがとうございました!」


 何か用事があるのだろうか、流師は帰ろうとする時雨を真剣な面持ちで呼び止めた。


「すみませんが、少し話をする時間はありますか?」


「はい……構わないですけど」


「ありがとうございます。立ち話もなんですし、場所を移しましょう」


 ***


 流師と時雨はこじんまりとした個室のカフェに移動した。


 流師はコーヒーをブラックで、時雨はアイスティーを注文した。二人のもとに飲み物が届くまで、長いようで短い沈黙が流れる。二人とも沈黙を苦に感じるタイプではないようだ。


 注文した品が届くと、待ってました言わんばかりに流師はコーヒーに手を伸ばす。よほど待ち焦がれていたのだろうか。先程までの落ち着いた様子が嘘のように、そそくさとコーヒーを喉に流し込む。

 

 しかし、時雨の視線に気づいた流師は、コホンっと咳払いをして、コーヒーをテーブルに置き、穏やかに話を始めた。


「改めて、私は大阪府警特別対策課第二班班長の流師善彦ながしよしひこと申します」


「阪西大学法学部四年の時雨日々生しぐれひびきです。現在、就職活動中です。よろしくお願いします」


(さっきも警察手帳を見せてもらったけど、特別対策課ってどこやろ)


 しかし、予想だにしない流師の質問によって、時雨の疑問はすぐに消えていってしまった。


「突然ですが時雨君、あなたの座右の銘はなんですか?」


「え? 座右の銘ですか?」


「ええ、座右の銘です」


「えっと……いざ、聞かれると、すぐに出てこないものですね」


「では、ある言葉を考えていたときに胸が熱くなったり、締め付けられたり。そのような感覚を経験したことはありませんでしたか?」


 事件前、歩道で雨に打たれ、項垂れていたときのことを時雨は思い出した。


「あ、あります! さっきの事故の直前にありました!でも……あれは座右の銘というか、ただ罵られただけと言いますか……」


「それはなんという言葉でしたか? お聞かせください」


 流師の食い入るような視線に、時雨は少し戸惑ったが、正直に話すことにした。相手は警察、下手な嘘で不要なトラブルなどに巻き込まれたくなかった。


「"井の中の蛙大海を知らず"です……」


「なるほど。確かにその言葉を座右の銘とする人は、あまりいないかもしれませんね」


 流師が悪戯に微笑んだのを時雨は見逃さなかった。


「ですよね! だから、座右の銘と言われたら違います! でも……なぜ、僕がその言葉を考えたときに胸が熱くなったり、締め付けられたりしたと分かったんですか?」


「それはですね……」


 言葉を区切ると、流師は指を組み静かに語り出した。


「今から私がお話しすることは、常識人であるほど大変理解に苦しむ話です。しかし、全て事実です。なので、ご理解のほどよろしくお願いします」


「はい……」


 時雨の声は少し震えていた。紳士的だった流師から凄みのような圧を感じたからだ。


「この世には銘力めいりょくという不思議な力が存在します」


「銘力……?」


「はい。銘力です。銘力とは、その人の座右の銘によって引き起こされる不思議な力のことです。そして、銘力を持つ者を――銘力者めいりょくしゃと呼びます」


 銘力に銘力者。

 一般ではおおよそ理解もできない話に、時雨の頭は混乱のまどろみへと嵌っていくのであった。

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