母の中で何かが音を立て壊れていきました。


 いつも優しく、丁寧に柔らかく話す母からは聞いたことがない声で叫び、暴れ回っていました。

 周囲にある物を手当たり次第父に投げつける母を、私は見ていられなかった。


 最初はただのヒステリーだと甘く見ていた父もコーヒーカップが直撃し、頭から血を流したときに容赦は無くなりました。


 父は、一瞬で母の両腕を掴み、和室へと投げ飛ばし、母のことなど気にも留めていなかった。

 

 その衝撃で手元に転がってきた日本刀を母は手に取り、背を向けていた父を突き刺しました。


 激昂した父は片手で母の首を掴み、持ち上げた。ミチミチと肉と骨が軋む音。彼は彼女を手にかけようとしたのです。私の唯一の生きる希望までも奪いさろうと。


 私はただ母を助けることに必死で、普段は反抗も目を合わせることもできない父に飛びかかりました。父はあろうことか、私の体当たりを防ぐために母を物のように投げつけたのです。


 倒れこみ、咳き込んでいる母を背に、私は手を広げ父の目の前に立ち塞がりました。


 しばらく睨み合いが続き、急に父が血相を変え、私に手を伸ばしました。私は恐怖で身動きが取れず、大の字のまま固く目を閉ざした。すると、右の肩から、左の骨盤にかけて背中に裂かれるような激痛が走ったのです。


「こんな男の子供なんて誰がいるか! お前も死ね!」


 痛みで薄れる意識の中、女性の金切り声が頭の中で反響する。そして、私は血を流し、畳に伏したのです。

 

 彼女が愛していたのは私ではなく、私に半分流れるあの男の血だったのかもしれません。

 優しさの正体は、最愛の男の面影に対してだったのかもしれません。




 藺草いぐさとコーヒーと血の香りが私の鼻腔をくすぐり、私が目を覚ましたとき――目の前には受け入れ難い光景が広がっていました。


 敷かれた畳は朱に染まり、絶命した母と目が合ったのです。


「母さん……え? なんで?」


「死んだ。全部、もうしまいや」


(何が終いなん? 母さんが? 僕の人生が? 全部お前のせいやろ。母さんがこうなったのも、僕がこうなったのも全部、全部、全部全部全部。お前のせいやろ)


 そのとき、いつも正座をしているときに眺めていた掛け軸の文字が目に留まりました。

 まるで、私を呼んでいるかのようにそこに焦点が吸い込まれたのです。


 『上善は水の如し』


 父は私に正座をさせ、叩きつけながら口酸っぱくこの言葉を発していました。時には和紙に何千枚も書写しをさせられたことも。

 忌々しくも私の心に残り、何処かすがっていた言葉。


 『どんな器にでも収まるような柔軟性。

  上から下へと流れるような謙虚な姿勢。

  急流のようにときに激しく。

  最高の善とはこれら水の如き生き方である』



 言いつけを思い出し、胸が締め付けられるような感覚がしました。ドクドクと脈を打ち高鳴ったのを覚えています。


 銘力が心臓に刻まれるあの感覚。

 私はこのとき、銘力者になったのです。


 そこからはただ、目の前の男を倒すことに無我夢中でした。


 母が投げ捨てた珈琲と心が通った気がしました。

 自分の思い通りに動くその黒い液体は、父に向かい飛びかかったのです。

 私の思い描く通りに。


「そうか、お前も成ったか」


 真っ赤な液体で壁を作り、容易く私の攻撃を防いだ父は不気味に顔を崩していました。


「その力の使い方は最後に俺が教えたる。俺が憎いなら全力でやってみろ。さもないと死ぬぞ。俺はもう手加減なんかできんからな」


 そう言うと、どこからともなく透き通るような水が彼の手元に生まれ、それは徐々に大きくなっていきました。

 盾に使われたドロリとした液体と混ざり、薄紅色に滲んだ塊が龍を型取り、彼を守るようにとぐろを巻く。


 私はそれを真似て黒い龍を作りましたが、珈琲一杯分の龍は手のひらサイズ。とても、父の身体を包み込むほどの大きな紅龍を討てるものではなく。

 薄紅の尾の先が振り払われ、黒龍は水飛沫みずしぶきとなり弾け飛んでしまいました。


「その程度か。ええか、よう聞け。銘力ってのはな……」


「黙ってくれませんか」


 私は母を手にかけた男の言葉に耳を貸す気など微塵もなかったのです。

 しかし、最後に少しでも父と会話をすれば、何かが変わっていたかもしれません。

 あのときの私にはそれを可能にする力があったのですから。


 そこからは怒りに身を任せ、私は力を振るいました。

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