Ash like snow...

@Dark-C

Episode.1...Introduction.

 私は、大文字陽朗という。

 昔、探偵と称して、異能の力を得る。それを境に、街の色、人の気配の密度と、温度は少しだけ現実からずれた。

 For Icy air pieace at your heart.

ヘッドライトが濡れた舗道を鮮明に生かしている。

 まだ、三番街に入る手前で、信号の赤が滲んで雨で濡れている。


 三番街。古い煉瓦蔵と、廃墟のマンションに浮かぶ、あの頃の貼られたままの朽ちたネオンサイン。

 サインのモニュメントは骸骨で模したクジラ。

 老舗のバル。半分は閉じたシャッターは物臭な店主がサボってそこら辺の体たらくな酒の匂いを口にまとったゴロツキを見下して追い払うためだけにやっている慣習だった。

 背の高いプラタナスはすくすくと生えている。夜風に葉を鳴らしている。

 夏の終わり。

Photogenic scenely grows mono-tone gradetion in melt sky.

湿気を含んだ風が、煙草の匂いと海の塩気を連れてきた。

 目当ては通りの突き当たり、街灯の庇に古い真鍮が鈍く光る、シガーバー〈Nocturne〉だ。扉の上でゆっくり揺れるオレンジの球体が、まるで待ち合わせでアラームの代わりに優しく僕らに気づかせるためだけにそっと置いたスマートフォンのアラームライトのように点っている。

 ドアを開けると、金属の蝶番が低く鳴り、奥の棚でクリスタルのグラスが微かに触れ合った。


 お好きな銘柄は、何でございますでしょうか――?

 磨き込まれたカウンターの向こうで、マスターが声を投げた。銀髪はきっちり撫でつけ、黒いベストは折り目正しく、袖口から覗くシャツは雪のように白い。口調はやわらかいが、瞳はガラス細工のように澄んでいる。


 シックな奴を――と言いかけて、私は黙った。ここへ来た目的を思い出したからだ。懐から細い木箱を出す。Bossの葉巻だ。

 マスターから火を借りると、ゆっくり、口の奥に煙を溜めて、鼻から逃がす。香りはウッディで、どこか古い樽の匂いがする。

 まだ、私は生きているかどうかが分からない。それは思考が煙であいまいになる感覚と似ている。しかし、マスターと対峙しているその間の口論により、多分、私は、あの朽ちたネオンサインの骸骨とは似て非なるものだったのだろう、と悟った。


 「懐かしい香りでございますね」

 「昔のボスの銘柄だ」

 「でしたら、灰皿はこれを」

 マスターが差し出したのは銀の皿。縁に葡萄のレリーフが施され、落とした灰が花のように開いた。


 ボスは、既にそこにいた。薄い灯りの向こう側、ソファに長い脚を組んで。黒のスリーピース、襟の開きは深いが、シャツの第一ボタンは留めている。声は澄んだアルトで、姿は奥の影と重なって定かではない。

 隣に、アイリーンがいた。

 薄明りにそばにいる、あの死神に愛された女性。

 残酷で天使みたいなBossの秘書。


 アイリーン――私の元相棒。銅貨色の髪を肩で切り、眉の上に落ちる前髪を指で払う癖。笑うと左の頬にだけ浅いくぼみが出る。銃の安全装置を外すより速く、嘘を見抜くより遅く、コーヒーに砂糖を二匙落とす女。昔、友人の飯尾君に撃たれたはずの女、もう、いない。

 だから、今ここにいる彼女は―――Illumina.


 「久しぶりだな、ボス」

 「知っているかい? 君の街で、吸血鬼が出たという情報があるということを」

 ボスは二本の指を軽く上げ、マスターに顎をしゃくった。「Lime liqueurを。Absintheに混ぜて。新しいカクテルだ。何かTitleを考えてくれ」


 マスターは短く会釈し、静かに手を動かす。ボトルの口が軽く鳴り、計量カップが月光のように光る。氷を割る音が、店内の時間を少しだけ遅らせた。

 「……Sapphire、ではいかがでしょう」

 「いいね。君のSenseには脱帽だ」

 ボスが膝を組み直し、アイリーンが僅かに視線を伏せた。彼女はグラスの水滴を親指の腹で払う。昔と同じ仕草に、私は胸の奥を噛んだ。


 「飲むかい、陽朗」

 「遠慮します。今夜は、頭を鈍らせたくない」

 「固いね」

 「吸血鬼が出るとなると、それなりの対策が必要になります。ボスの事務所で準備を?」

 「何言っているんだ、Californiaの私の事務所からこちらまで宅配便で君に必要な仕事道具を送れというのかね。冗談も甚だしい!」

 ボスは喉を鳴らして笑った。その笑いは、氷が解ける音に混じって、やがて壁の古い時計の中に吸い込まれた。


 「いいだろう。Illumina――覚えているね。幻影を創る力。しばらく使っていなかったから忘れかけていたが、説明の概要は変わらない。『幻影の実体を使ってくれ』。そうとしか言えないんだがね」

 指が鳴る。ぱちん、と乾いた音。

 奥の暗がりから、三つの箱が滑るように現れた。黒檀、柘植、白木。どれも掌より少し大きく、真鍮の留め金が月の色で光っている。


 「君は使い方を知っているね?」

 「目を通しておきます」

 「頼もしい」


 私は黒檀の箱を開けた。中には、銀色の針を束ねたような器具。根元に小さく〈Eclipse〉と刻印。柘植の箱には薄い鏡面の板。光を吸い込むような黒。白木の箱には、紙片が三枚。古い羊皮紙の匂いが、遠い時の記憶。呪文で出来た異国の辞書の埃を思い出させる。

 「それはね、君が『見たいもの』を見させる。これは『見られていること』を隠す。最後の紙は、『見えるはずのないもの』に名前を与える」

 ボスが指先で箱を弾く。ほんの僅かな仕草に、世界の輪郭が一段階、緻密になる。


 「吸血鬼の噂はどこから?」

 「通りの向こうの港湾倉庫の事件。夜半に出入りする影があると警察が捜査し、依然として発見されないのに、何故か宙に浮く女性の死体。大量に血抜きされた家畜、空の冷却車、偽装された死体から抜き取られた血液の引き渡し。全部が全部、芝居かもしれないし、全部が全部、事実かもしれない」

 「芝居?」

 「そう、私みたいにね」Bossは煙をそこですった。

 「まるで、その姿は幻影だ。『Vampire』はいつだって人の側にいる。だから、私は幻影を創り仕事道具だけを君に預ける。住民が信じているらしいその怪物の姿を、私達の手で人間へと生まれ変わらせる」

 「Bossの幻影との暗喩......皮肉だな」

 「現実はいつも、ため息混じりさ」


 アイリーンが口を開いた。

 「陽朗。あなた、まだ朝にブラックを飲むの?」

 「砂糖二匙、だろ。お前の分まで」

 彼女の笑みに、左の頬のくぼみが、ほんの少しだけ覗いた。私は視線を逸らす。彼女は死んだ。飯尾武が引き金を引いた。私は現場に遅れて、冷たい金属の匂いの中で、名前を呼んだ。だから、目の前の彼女は――

 「幻影、でしょう」

 ボスが肩を竦めた。アイリーンは笑みを消さず、しかし瞳の奥に深い湖面を沈めた。


 「幻影はね、陽朗。あなたが見たいものの形を借りる。けど、私の記憶まで借りられるわけじゃない。だから、これはボスの『思考により生み出し創造物』」

 「それは推理?」

 「あなたが動くために必要な、欠けたピース。ボスは、いつもそれを補う」


 マスターがトレイを静かに置いた。Sapphire。薄青の液体の底で、砕いた氷が小さな惑星のように回っている。

 「香りはライムの清涼、余韻はアブサンの微かな薬草です」

 ボスは一口、喉を潤した。

 「道具立ては整った。陽朗、君が行くべき場所は二つ。港湾倉庫と、もうひとつは、三番街の裏路地〈Block streets〉。そこに、私の古い伝手がある。名を――」

 「言わないでください」

 私は手を上げた。「名前を聞いた瞬間に、私のほうの『意地』が曇る。いるかどうか分からない存在を信じたくもない。幻影といい、Vampireといい」

 ボスは笑みだけで頷いた。「いい癖だ」


 私は箱を鞄に仕舞い、アイリーンの前に立った。距離を測る。彼女は昔と変わらず、半歩だけ後ろに体重を預け、逃げるでもなく、残るでもない位置に立つ。

 「私は飯尾武の件を調べる」

 「いま?」

 「いま」

 彼女はわずかに首を傾けた。幻影の頬に、光が薄く走る。私はそこに触れない。触れたら、今夜の私は、弱くなる。


 「いい晩餐会だったよ。ご武運を、陽朗君」

 ボスが黒のSilk hatを指で回し、頭に載せる。気障な仕草だが、不思議に似合う。彼女――声からすれば女性だが、性を外れたところにいる――は立ち上がり、帽子の庇に指先で軽く触れた。

 「帰りの車で送ろうか?」

 「勘違いしていないかい?」

 ボスは片手を上げ、掌を胸の前でふわりと開いた。そこから薄い煙が滲み、衣の黒に、闇の黒が溶ける。指先から順に、幻影がほどけていく。匂いも重さも、椅子の微かな軋みすら、周囲の影も、Bossの姿も、椅子の温かみすらもフェードアウトした。


 アイリーンだけが残った。彼女の影は、私の影とは別の方向へ延びている。マスターがグラスを磨きながら、目線だけで「大丈夫か」と訊いた。

 「大丈夫です」

 嘘だ。大丈夫じゃない。


 私は勘定を置いた。Sapphireの匂いがわずかに鼻腔に残り、Absintheの記憶のような苦みが舌の奥に残った。

 「港に?」とマスター。

 「まずはBlock streets」

 「でしたら、裏口をどうぞ。表は今夜、少し風がきつい」

 私が頷くと、マスターは小さな鍵束を鳴らして、壁の一枚を押した。古い本棚が半歩分だけ回転し、薄い通路が開く。そこは湿気と木の匂いが混じる、古い劇場の袖のような空間だった。


 アイリーンが先に歩いた。踵の音が一度、二度、間隔を置く。癖だ。人の足音は性格より正直だ。

 「陽朗」

 「なんだ」

 「あなた、まだ朝の走りをやめてないのね」

 「息が上がらないうちに、現場に着くためだ」

 「昔のまま」

 「お前も、昔のままだ」

 彼女は振り向かない。薄い肩越しに、ほとんど消えてしまう声で。「私は、昔じゃないわ」


 路地に出る。銀杏の葉が舗道に貼りつき、水銀灯が湿った黄色でそれを照らす。猫が二匹、電柱の陰で身を細め、こちらを通せんぼするように目だけを光らせた。遠くで救急車の音が、一度上がってから、すぐに低くなった。


 Block streetsは迷路だ。曲がり角ごとに、誰かの生活の背中が覗く。カーテンの隙間、台所の料理の匂い、テレビの薄い笑い声、慌ただしいけたたましい警察のサイレン。人が怪物に見えるのは、いつも背中からだ。


 路地の奥、古いバル〈Junks like that sun.〉のシャッターが三分の一だけ開いていた。中から灯りが漏れ、紙の焼けたような匂いがする。私は屈んで潜り、アイリーンは躊躇なく身を滑らせる。


 カウンターの向こうに、女がいる。白髪を短く刈り、薄い琥珀色の眼鏡。シャツは藍の細縞で、袖は肘まで。指にはインクの染み。目は眠っていない。歳はわからない。

 「久しぶりやね、陽朗」

 「お変わりなく、五月」

 五月――この街の『名付け屋』。言葉に仮面を与え、仮面に言葉を与える。彼女がひとつ名を置けば、世界はその分だけ動く。

 「ボスの匂いがする。……アイリーン?」

 アイリーンは会釈した。五月は微かに目を見開いたが、驚きを顔に載せるほど若くない。

 「今夜は、どんな言葉が要るの」

 私は白木の箱から紙片を一枚出し、カウンターに置いた。紙は彼女の指の下で、ほんの少しだけ重くなる。

 「『見えるはずのないもの』に名前を与える紙、だそうだ」

 「ボスの仕事ね。値が張る」

 「払う」

 「金の話じゃないよ」

 五月は笑って、紙に筆を入れようとして、止めた。筆先が、空気の抵抗を感じたように震える。

 「何を書くべきか、もうあんたは知ってるね」

 私は頷いた。

 「Over Dirge Red」

 私が口にすると、空気が少しだけ、くっきり固くなった。葬送歌を捧げる真紅。私がボスを呼ぶ時の、私だけの呼び名。名前は、諸刃だ。呼べば、来る。来れば、消える。

 五月は筆を落とし、音もなく字を書いた。紙の上で、赤い糸が一本、ぴんと張ったように見えた。


 「これで、君の幻影は、君になる」

 五月の声は、水面に落ちる種のように軽い。

 「あたし?」

 「『幻影』に名がつけば、それは独りで歩く。あんたが望んだわけじゃなくてもね」

 私は息を吐いた。ボスの好む遊びだ。盤面を増やし、駒の動きを速める。


 アイリーンが紙を見つめている。指先が僅かに震えているのを、私は見た。彼女は幻影だ。けれど、震えは嘘を吐かない。

 「行こう」

 私は箱を仕舞い直し、五月に礼を言い、再び路地に出た。


 港へ向かう前に、ひとつだけ寄りたい場所があった。三番街と銀杏小路の境目、古い劇場〈白鯨座〉の跡地だ。今は壁だけが残り、空が舞台になっている。


 私はその真中に立った。夜風が客席から吹き抜ける。足元には、誰かが置いた花束。ラッピングは色を失って、透明だけが残った。私はしゃがみ込み、花束に指を触れる。冷たくも温かくもない、ちょうど人肌から半歩離れた温度。

 「飯尾武の件、やるんだね」

 「やる」

 「復讐?」

 「推理」

 「それがあなたの復讐」

 私は答えない。アイリーンは舞台袖に目をやり、そこに誰かが立っているかのように、わずかに腰を引いた。


 「陽朗」

 「ん」

 「もしも私が、もうひとつの『名前』を持っていたら。あなたは呼ぶ?」

 「呼ばない」

 「どうして」

「名前を呼ぶと、世界が動く。世界が動くと、推理は変わる。今夜はまだ、推理を変えたくない」

 彼女は笑い、今度は右の頬にだけ、浅い小さなくぼみが宿った。幻影の気まぐれだ。


 空気が一段、冷えた。港のほうから、潮の匂いが濃くなる。あの倉庫には、もう『動き』がある。私は立ち上がり、肩の関節をひとつずつ回した。息は乱れていない。走る準備はできている。


 行こう。私は心の中で言った。行こう、Over Dirge Red。君が盤面を増やすなら、私は歩数を増やす。Bossがわざわざ私の記憶から幻影を創るなら、彼女は、Over Dirge Red――葬送歌を捧げる真紅。その名は、今夜の空気に、静かにゆっくりと染み込んでいく。

 Softly calm moods.

 もう二度と戻れない危険な予感。

 それは陽朗が仕事に就いた時と一緒。

 胎児の記憶のように、社会にとけこんだ頃から息づいた心臓の鼓動。

 Number.0.

 これが私の名。

 それらしい仕事をアイリーンには下さなかった代わりに、得体のしれない危機を助長させるだけのNocturneを演じる。

 私が舞台に立とう。踊ろう、死にゆくまで。

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