第11話 野菜の袋
そのホテルで、宿泊した子供たちのために水泳教室を行っていることを知ったのはつい昨日だった。
その会場は前述の屋内の25メートルプールで、コースロープで3コース分を広く仕切ったところだそう。
講師は? スポーツレクリエーション部のチーフが行うとのこと。
チーフはどんな人かというと、すこし髪の薄い、細めで小柄な男性だった。
眼鏡の奥に光る目は、いつもにこやかで、笑うと顔にしわが沢山寄る。
年齢は知らないが、大きな子供がいるらしいので、50代くらいではなかろうか。
そのチーフは色んな場所に現れる。あちこち、仕事で動き回っているのだろう。
プールサイドにいたかと思えば、数時間後にタラソテラピーの扉の前でエステティシャンと話をしている。ポロシャツ姿でエントランスをたびたび横切ることもある。
今日、たまたま仕事が早く終わり、私は外を散策していたとき、とある場所でそのチーフにばったり出くわした。
舗装されていない土の小道、ダチュラと野菜畑の間である。
そこは、普段は観光客は決して訪れないだろう、畑仕事をするための道に違いなかった。
「よう、なにしてるの?」
ポロシャツ姿のチーフは私に声を掛けてきた。
彼の両手には、丸くなった白いビニール袋が握られている。
「散歩です」
「こんな場所を? メインの方は歩いたの?」
「あ、はい」
メインの方とは、おそらく初日に歩いたサザエ丼の店がある通りのことだろう。
チーフは、片方の手に持った袋を地面に置いた。
袋の中は野菜だった。
そこから取り出したのは、大きなきゅうり。
「よかったらどうぞ」
「え、良いんですか? ありがとうございます」
「では、また明日ね」
チーフはそういって遠ざかっていった。
のちに誰かから聞いた話だが、長くこのホテルで働くなら、その土地の住人との深い付き合いが欠かせないという。
チーフはかれこれ20年はここで働いているとのことだった。
それはそれは、農家の方とも親しいのだろう。あんなに袋一杯の野菜を抱えているのだから。
それはきっと、土地の人からの信頼の重さと等しいに違いない。
ひとつところで長く働くことは、誰もができるわけではないのは知っている。
それを維持することも並大抵ではないことも。
でも今日は、その維持することの秘訣のひとつを、チーフの姿から学んだ気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます