End If:「共存(Harmonization)」
地上のアーカイブセンターで見つけた、隠し書棚。
そこに収められた二冊の皮表紙の本。
一冊は「精神支配(Domination)」
もう一冊には「精神調和(Harmonization)」と記されていた。
「きっと、この隠し棚に気付いたのは私だけね、ロジエル。」
《そのようです。スキルの性質上、いずれか一つしか取得できません。》
彼女は少し考えると、後者を手に取った。
異なる次元では前者を手に取った彼女は識別コードを【DOMINA】と刻まれた。
だがこの世界で刻まれたのは、本名そのままの――【TOKO】。
支配ではなく、調和。
彼女は“冬子”として、ロジエルと共に出立した。
***
地上層3階。
腐敗したフロアを徘徊する“偏食家”の影が迫る。
ブゴォォォオオオ!!
トーコに巨大な肉塊のような怪物が襲いかかる。
肥大した顎が開き、牙の列が頭を呑み込もうと迫った――。
その瞬間。
「怪光線ッ!!」
熱線が怪物を薙ぎ払う。
咆哮と共に肉塊が崩れ落ち、焦げた臭気が立ちこめる。
焼け焦げた肉の塊からは、まだ煙がくすぶっていた。
焼け跡の前に、線の細い青年が膝をついていた。
「……あれ?」
腕の識別刻印が灼けるような痛み、
胸の奥を締め付けるような重苦しさが、嘘のように消えている。
視線を横にやると、少女が倒れていた。
「苦しそうだったから、スキル:精神調和、使ってみたわ……」
唇を噛み、荒い息を繰り返しながら胸を押さえている。
肩で切りそろえられた黒髪。まだあどけなさの残る顔立ち。
「でも、全然大したことないわね! このくらい平気よ!」
苦痛に顔を歪めながらも、トーコは強気な笑みを浮かべた。
「……き、君……」
声が詰まる。助け起こそうとするが、手は宙をさまよう。
触れていいのか、離れるべきか――年頃の少女を前に、青年は狼狽えた。
「……お、俺は――」
一瞬ためらい、唇がわずかに震える。
「
その響きを聞いたトーコは、思わず口の端を上げた。
「湯気? 変な名前ね」
小さく笑いを漏らし、肩をすくめて見せる。
「ゆ↗︎げ↗︎じゃない! ゆ↘︎げ↘︎だ!」
ユゲは耳まで赤くなり、視線を泳がせた。
「それより、私の護衛になりなさいよ。
アンタも、私みたいな美少女のお供が出来て光栄でしょ?」
ユゲの胸に、呆れと同時に妙な熱が芽生える。
ため息をつきながらも、まあそれも悪くないかと思えている自分に驚いた。
***
――地上層・隠しフロア
ユゲは壁に溶け合うように一体化していた扉を見つけた。
力を込めて壁のタイルを押し込むとスライドし、隠し部屋が現れる。
奥には埃をかぶった端末が一台。
長年放置されていたのか、ノイズが走るように点滅している。
それはまるで誰かを待っていたのかのようだった。
「オカルト研究区画……? 何なのここ? 埃臭いし……」
「……気になるな。ロジエル、頼む。」
端末に近づくとロジエルが緑色に点滅を始める。
《同期完了、最新の状態に更新します。》
《偏食家の討伐を報告。報酬コード:NILを取得しました》
ロジエルからアナウンスが流れる。
「報酬……って、つまり、スキルポイントみたいなものかしら?」
トーコが首をかしげると、ユゲが苦笑して答えた。
「この施設、ゲームみたいな構造してるからな。」
目の奥に投影される画面には、奇妙なタイトルのフォルダが並んでいた。
─空間位相歪曲
「……取得できるスキルがあるみたいね」
トーコは睨むように眉をひそめながらも、スクロールを止めた。
─【フラッシュ(Flash)】時空間を圧縮・転移する高速移動技術
─【屈折(Refraction)】大気中の密度変化を利用し、光線の軌道を操作する。
「瞬間移動か……使ってみたいな」
ユゲがNILを投入してスキルを選択する。
次の瞬間――視界がねじれ、空間が崩壊するような感覚が襲った。
直後、トーコも膝をつく。
この負荷も大部分は彼女が肩代わりしてくれている。
額を押さえ、嘔吐を堪えるように肩を震わせていた。
「ごめん、トーコ……! 俺のせいで……!」
「得体の知れないスキルをいきなり使うなんて……
もっと自分を大事にしなさいよ、この馬鹿!」
彼女の声は震え、呼吸が浅い。
ロジエルの声が割り込む。
《警告。精神同調中の高エネルギー転移は禁忌です》
「……わかった。このスキルはもう使えない。」
ユゲは拳を握り、すぐにスキル管理画面を開き、削除した。
代わり――【屈折(Refraction)】を取得した。
「光を歪めるだけの補助スキルか……」
(でも、これならトーコを傷つけない)
誰かのために、自分を曲げた。
それでも彼の中には、ほんの少し誇らしさが芽生えていた。
ふと、トーコが青ざめた顔を上げる。
「……ねぇ、今、誰かいたような気がしたの」
「人の……気配?」
「ううん、わからないけど……何かがこっちを見てる感じ」
ユゲは辺りを見回すが、誰もいない。
ただ冷気が流れ込み、埃が舞うだけだ。
「気のせいだよ。転移の余波で、認識が乱れてるんだ」
「……そう、かもね」
トーコの背後、モニターのノイズの奥で――
何かが、こちらを“見て”微笑んだ。
「私のこと……気づいてくれた。私を見てくれた……ふふふ……トーコちゃんっていうんだあ」
湿った声が耳元をかすめる。
――だがそれに気づいた者はいなかった。
***
空気が震えている。
ロジエルが警鐘を鳴らす。
《堕天使です。識別名:【
ゴーストの姿は見えない。だが、確かに“そこにいる”。
狂気を孕んだ囁きが、鼓膜の内側から直接響いてきた。
「私のことを見てくれた……トーコちゃんは、私のもの……!」
「ユゲ! 来るわ!」
トーコの警告と同時に、目に見えない衝撃波が床を抉った。
視えない敵。読めない動き。
ユゲは咄嗟に飛び下がったものの、見えない刃物のようなもので切りつけられた。
狭い洞窟の壁にぱっと鮮血が舞う。
トーコはゴーストに精神同調することで、位置を捕捉できるが、同時に歪んだ精神の奔流を浴びることになる。
((怖い。誰も私を見ない。誰も私を見つけられない。
みんな私を忘れていく。怖い。寂しい。))
慟哭のような彼女の悲しみがトーコに伝播し、頬を涙が伝った。
((私は死んでしまったのかしら?みんなを殺したら。
私のことが見えるようになる?殺せばいいの?殺すね?だから逃げないで。))
ユゲは掌を前に突き出す。
「屈折フィールド――展開!」
空間のあちこちに、薄い水面のような歪みが生まれる。
光が跳ね、焦点が狂い、視界が万華鏡のように変化した。
ユゲは息を止め、指先で幾何学的な軌道を描く。
「照射、開始ッ!!」
怪光線が放たれ、屈折レンズ群を通過するたびに方向を変えた。
光が回転し、軌道が絡み合い、空中に螺旋状のリングを形成していく。
リング内に閉じ込められたエネルギーは反射を繰り返し、赤く、そして白く輝きを増していった。
「まだだ……もっと――」
彼の声が震える。
トーコはその背中を見て、無言で祈った。
空間全体が、熱に歪む。
リングは共振を始め、音も色もない“光の奔流”が形を取り始めた。
「そこよっ!」
トーコは何もない空間を指さす。
「――今だ!
爆発ではなかった。
世界そのものが一瞬、白く“無音”になった。
次の瞬間、ゴーストのいた場所を中心に、膨大な閃光が奔る。
血も肉も、声も、跡形もない。
ただ、床に黒く焼き付いた“人影のシミ”だけが残っていた。
ユゲはその場に膝をついた。
呼吸が荒い。震える手のひらを見つめながら、低く呟く。
「……俺が、やったのか」
トーコはそっと彼の肩に手を置いた。
「あなたは救ったのよ。あの人の苦しみも。
……あなたの光で、終わらせたの。」
ユゲの背後、ロジエルの通信ウィンドウが淡く点灯した。
《【YUGE】の識別コードを更新します。――【
白い閃光の残滓が、ゆっくりと空に昇っていった。
***
――地下四層、呪異区画。
黒炎の翼がはためく。
灯芯のように点いた火が一息で荒れ狂い、廃社の梁を飲み込む。
《警告。ネームド発狂体――識別名:【
ロジエルが冷たく告げた刹那、炎の翼が地を抉り、トーコめがけて突っ込む。
「――ッ!」
ユゲが飛び出し、屈折の壁で炎を散らす。だが熱は貫いて、肌を焼く。
《警告:高位熱量体。近接は非推奨です》
「コイツ! トーコを狙っている?」
「待って、ユゲ。」
トーコは一歩前に出て、両手を胸の前で合わせた。
「精神同調――あいつに潜ってみるわ。」
「発狂してる人間に潜るなんて……危険だ!」
記憶が溢れる。
教室。濡れた床。ひっくり返る弁当箱。
黒板に爪を立てる甲高い音、湿った囁き、視線。
「なにその顔」「きもい」「泣くの?」
机が揺れ、ノートが泥で崩れ、傘が折れる。
倒れた少女を見る“私”。
口角を上げ、見下ろす“私”。
――私?
胸が、焼かれたみたいに痛んだ。
これは思い出じゃない。他人の痛覚が神経に“実行”されている。
「……私、人の痛みなんて考えてなかった……」
声が震える。
「家で自分の居場所が無くて、必死で。
せめて学校では、みんなから認められたくて、あんたを犠牲にした。
そのためなら何をやってもいいって思ってた。」
(――でも、そんなことをしなくても人と繋がれるって、彼が教えてくれた。)
「許してほしいとは言わない。許されるとも思ってない。
でも――ツケは、私が払うわ。」
トーコは黒炎の中心に手を伸ばした。
「【精神同調】――限界いっぱい!
あなたのその痛み、引き受ける。
怒りも、熱も。こっちに寄越しなさい」
赤い光輪が軋み、炎のうねりが二つに割れる。
片方がトーコへ流れ込み、彼女の肩が焼ける匂いがした。
インフェルナの瞳が、初めて“焦点”を結ぶ。
「……わたしの獄炎が……怒りが、収まっていく……炎が……消える」
掠れた声が生まれた。
「また私から奪うんだね、冬子ちゃん。」
インフェルナが、火の底からこちらを見上げた。
その表情は泣き笑いだった。
「あの時は……嫌がらせで、悪意で、踏みにじられるばかりの“奪われ方”だった。
でもこれは……なんて優しい“奪う力”……」
ロジエルが更新を告げる。
《記録:【INFERNA】暴走因子“獄炎”――負荷分配により鎮静。理性回復を確認。》
ユゲがたまらず支える。
「大丈夫か、トーコ!」
衣服は焦げ付き、身体は異様な熱を抱えている。
「大丈夫じゃないわ。でも、これでいいの。」
――沈静した黒炎が、体温へと還っていく。
短い沈黙のあと、INFERNAがかすれ声で言う。
「……勘違いしないで。あなたのことは許さない。これからも。
でも、もう先に進まなきゃね。――きっと、あなたもそうしてきたんでしょう?」
トーコは一度だけ頷く。
「ええ。二度とあなたの前には現れないわ。」
「……じゃあね、大嫌いな冬子ちゃん。」
「さようなら――
名を呼んだ瞬間、黒炎は散り、INFERNAはただの“少女”の影へと戻った。
彼女は振り返らず、ひとりで暗がりへと歩いていった。
***
――地下最下層、B5フロア。
ただ白い光に満たされた無機質な空間
中央に立つ真っ白な円柱に、エレベーターの扉だけがぽつりと浮かんでいる。
「……ここまで来られたのも、トーコのおかげだ。」
トーコは胸を張り、にやりと笑う。
「そうよ! もっと感謝しなさい!」
ユゲは少し目を伏せ、柔らかく言葉を紡いだ。
「君がいなかったら、誰かを大事にすることも、自分を大事にすることも……できなかったと思う。」
「――っ……!」
トーコは顔を真っ赤にして俯いた。
「そ、そんなの……当たり前でしょ……」
小さく呟いたあと、少し間を置いて続ける。
「……今思うとパパも、ママも、私を取り巻いていた連中も、あなたのように真っすぐに私と接してくれた人は居なかったんだなって。」
「アキラのおかげね。
私も、ちゃんと“誰かに大事にされてる”って思えた。」
今度はユゲが固まる番だった。
「そ、そう言われると……なんか、こっちまで照れるな……」
二人の間に、沈黙。
「ちょっと! 何で黙るのよ! 気まずいでしょ!」
トーコが顔を赤くしたまま、ユゲの肩をバシバシ叩く。
「い、痛いって! だからやめ――!」
アキラは追い立てられるように、エレベーターの方へ下がる。
ふと、静かな声で言った。
「ともかく……この先に何が待ち受けようとも、君となら――なんとかなる気がするよ。」
トーコは頷き、笑った。
「ええ。この先も――一緒に!」
エレベーターの扉が、静かに開く。
二人が並んで乗り込むと、金属の響きだけが白い空間に残った。
やがて、ゆっくりと扉が閉じる。
音も光も飲み込むように、白い世界が消えていった。
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