第25話:「逆流(Backlash)」

地下四層。


ドミナが降り立った瞬間、空気が歪んだ。

湿り気と瘴気が入り混じり、視界の端に“あり得ないもの”が揺らめく。

腐りはてた寺社が、数歩進むごとに復元されては崩落する。

果てしなく伸びた板張りの廊下を歩いていると思えば、気づけば夜の山道に立っている。


重力も、時間も、感覚すらも、ひとつに定まらない。

錯覚か現実かも曖昧な、狂気の迷宮が広がっていた。


《警告。ここは“呪異区画(Malignant Zone)”。》

《改造実験の失敗体、発狂天使の遺骸、封印されきれなかった呪詛が堆積しています。空間認識の齟齬、時間軸の乱れ、重力の逆転……すべてが発生しうる領域です》


「チッ……分かってるわよ。分かってて来てんの」


舌打ちでロジエルの説明を遮り、声を荒げて自分を奮い立たせる。


手勢はすべて失った。


(シヴ……何勝手に死んでんのよ……)


レイヤ相手に自分の能力精神支配はまるで無力だった。

完璧に制御されていたスキズム、悪夢を切り取ったかのような死人たちの行進。

勝ち筋を作ってくれたのも、シヴの個人的な判断と犠牲にすぎなかった。


「もっと……もっと強い駒がいる……」

掠れた声が虚空に吸い込まれる。


このままでは終われない。

ドミナは奥歯を噛みしめ、足を進めた。


――その時


視界が揺らぎ、黒煙の奥に「人影」が浮かび上がった。


赤く輝く光輪。

背に広がる黒炎の翼。

虚ろな瞳は憎悪の赤で灼かれ、焼け焦げた制服がひらめく。


「……天使……?」


《警告。ネームド堕天使、識別名:INFERNA。危険度、上位》


「……ふふ。悪くないわ。あなた……使える」

ドミナの口元が、いつもの支配者の笑みに戻る。


(空いたリソースを注ぎ込めば、あの怪物堕天使だって御せるはず……!)


光輪が紫電を帯び、4重に連なるように展開され、支配術式が走る。


「さあ、私の兵隊になりなさい。その力、私のものに――」


木々がざわめき、鳥居に留まっていたカラスたちが逃げるように飛び去る。

瞬きするとそれらは影も形も消え失せ、地下にあるはずもない月だけが明るく輝いていた。


支配が通った感覚――。

いつかのツナギのように弾かれることもなく、スキズムのように無反応でもない。


(捕まえた……!)


だが次の瞬間、脳内に呪いのような記憶が奔流となって流れ込んできた。


(ねえ、覚えてる?)


教室。雨の日


濡れたノート、壊れた傘。

笑い声、ひっくり返った弁当箱。


クスクスと蔑むように響く笑い声。

様々なあざけりの声が響き、視界がゆがむ。


私が何をしたの?

私はあなたたちに何もしてない!

何もしていないのが悪かったの?

道化を演じて、あなたたちの傘下に加わればよかったの?

加わって他の子に同じようにこんなひどいことをするの?


私はいやだ

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ


世界が嫌いだ。


人の心は醜く汚く、希望はない。


薄暗い教室の隅で泣いている少女。

睨みつけるように見る先には


(――私?)


名前すら呼ばれない存在。

存在すら否定される日々。


その視線の先の――笑っている自分。


黒炎が瞬き、発狂天使の少女がこちらを見据える。

その瞳は――かつて踏みにじられた誰かの、怨念の色。


「……やめなさい……そんなの知らない……私は、知らな……」

言い訳は、黒炎に焼かれて消える。


灼熱が脳を焼き、支配の術式が反転した。

“獄炎”の少女から逆流する膨大な負の感情。

怒り。憎しみ。絶望。

濁流のようにドミナの精神を呑み込んでいく。


「嫌……そんなはずじゃ、私は支配者……私は上に立つ者で……!」

燃え盛る黒炎に、精神が崩れ落ちていった。


走馬灯のように浮かび上がる記憶。

爆炎の中、小さく笑った冴えない中年男の横顔。


「アンタを王様にしてやるよ、お嬢。こう見えて“プロ”なんでね」


今までの奴隷とは違う、生意気な反応。

「抵抗値が高いだけ」とあっさり結論づけ、その理由を理解しようともしなかった自分。


燃え上がるゾンビの群れ。

腹を割かれながらもツナギに食らいつき、鬼の形相で前に立った男の背中。


「ドミナぁぁあ! 逃げろぉおお!!」


あれは命令ではなかった。

彼は自分の判断で――守ろうとしていたのだ。


(……支配できてたんじゃない。 私は支えられていたんだ……)


胸に、初めて“悔い”という熱が宿った。


(なのに……私は……ただ“駒”としてしか……)


――ゴウッ。

耳元で何かが燃え弾け、光輪の残骸が砕け散る。


こげ臭い匂いと共に、意識は灰となり散っていった。


支配者は、支配できなかった。

ただ、踏みにじった誰かの怒りに、焼かれて終わった。



* * *


遠くからその光景を見ていたトーカの拳が、静かに震えていた。


獄炎に呑まれ、自滅していくドミナ。

その結末は因果応報に思えた。


「……ごめん。間に合わなかったよ……」


トーカはシヴに託された“叛骨のネックレス”をぎゅっと握りしめた。

金属の冷たさが、熱く揺れる胸の奥をどうにか繋ぎ止める。


焼け焦げた風が頬を撫でる。

黒炎が瞬き、発狂天使の少女がこちらを見据える。


戦いは、否応なく始まろうとしていた。

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