第三章 焔を灯す理由(ワケ)
あのとき――サフィアが意味深な笑みとともに歩き去った背中を、エレネアはいつまでも見つめていた。心の奥が、ざわついていた。自分でもその理由がわからないままに。
そして、それから数日。
依頼対象の魔獣は、予想よりも手強かった。だが、連携は冴えていた。リュカの剣が魔獣の懐に風を呼び込み、エレネアの魔力がその一瞬を逃さず叩き込む。息を合わせる、というより、考えるより先に動けるようになっていた。
無事にギルドに報告を終え、夜の帳が下りた頃――
ふたりは自然と、
「……ねえ、リュカ。今日って何の日か覚えてる?」
「……?」
「今日は旅立ちからちょうど百日目。ちなみに、わたしの誕生日、あと三日なんだよ?」彼女がいたずらっぽく笑う。「でさ、これ頼んでみたかったんだよね……記念日ってことで、少しだけ」エレネアは、メニューの端に載っていた琥珀色のボトルを指差す。
「……でもお前、まだ十九だろ」
「……もうすぐ二十歳になるもん。あと、三日!今日だけ、ね? 記念日ってことで、大目に見て」
「ギリ未成年じゃねぇか……俺の立場が危うくなるな……」
リュカはしばし黙って彼女の顔を見つめる。その視線に押されたのか、エレネアは慌ててグラスに手を伸ばしながら言い足した。「だ、大丈夫だってば。いっぱいは飲まないし……」「……まったく、仕方ないな。飲みすぎたら、背負って宿まで運ばないからな」そう言いつつも、リュカは小さくため息をついてグラスを受け取る。「うん、うん。リュカってほんと優しい」
二人のグラスが、やわらかな音を立てて触れ合う。その音が、静かな酒場の空気をやさしく揺らした。二人は琥珀色の酒を、焔に照らされながら静かに口にした。焔はまだ、小さな灯。けれどその灯りが、ふたりの過去に差し込むには、きっと十分だった。
琥珀色の液体が、グラスの中で淡く光る。一口。ほんのひと口だけのつもりが――
「……ふわぁ……これ、結構くるかも……」エレネアは小さく肩を震わせて笑う。顔が赤く染まりはじめていた。
「大丈夫か?」「ん~……ふしぎ。なんだろ、心がぽかぽかする……お酒って、これが“焔”なのかな」「焔?」「うん。こう、胸の中でじんわり灯るかんじ……怖いこととか、全部消してくれるみたいな」彼女はグラスを両手で包み込むように持ちながら、ふと目を伏せる。
「でもね……わたし、よく夢に見るの。あの場所……グレイ・ヴァイパーに捕まってた、あの時のこと」リュカは静かに聞いていた。
「身体の自由がなくて、毎日がただの実験で……痛くて、怖くて……」言葉が、細く震える。「それでも、一番怖かったのは、“何も感じなくなっていくこと”だった。怖くても痛くても、無になって、壊れていく……それが、いちばん……」
グラスが静かに揺れる。手がかすかに震えていた。
「でも、ある人が手を差し伸べてくれた。……なぜかは、今でもわからないけど。あのとき、焔がついた気がしたの。……わたしの中に、まだ何かがあるって、思えた」「それが……“灯”か」リュカがぽつりと言う。
「うん……小さいけど、大事にしたくて。だから、今日みたいに、グラスを交わしたり、笑い合えたりするのが……」エレネアのまぶたが、とろんとする。
「……ふふ……わたし、酔ってるのかな……なんか、もう、眠い……」「だから言っただろ。背負わねぇって」「うぅ~、冗談だもん……でも、リュカの背中……きっと、あったかいんだろうな……」「……何言ってんだ、おまえ……」
リュカは呆れたように笑うと、椅子から立ち上がり、軽くエレネアの頭を撫でた。「……しょうがねぇな。ほら、行くぞ。おんぶは無し、肩貸すだけな」「えへへ……ありがと……」
エレネアの焔は、小さく、けれど確かに灯っていた。それは、彼女を縛る過去の闇を、少しずつ溶かしていくようだった。宿への帰り道。リュカの肩に寄りかかるエレネアは、顔を火照らせ、くすくす笑っていた。
「ふふ……あの店主、最後まで“お水もどうぞ”って言ってたね」「だってお前、グラス三杯目で“火の精霊に乾杯〜”とか言ってたろ……」「えっ、そんなこと言ってた?」「言ってた。……周囲、どん引きだったぞ」
ふたりの笑い声が、静かな石畳に溶けていく。酔いはまわっているが、意識はまだはっきりしているようだった。しかし、宿に着いてしばらくすると
――――
「……うぅ……歩くの、つらい……」
エレネアの足元がふらつく。
「だから言ったんだ……まったく」リュカはため息をつきながら、そっと彼女の肩を抱き寄せた。
部屋に入ると、エレネアはベッドに倒れこみかけたが、「……ちょっとだけ……もうちょっとだけ話そ?」と、リュカを引き止めた。
「……まだ飲むのか?」「ううん、ほんのちょっと。さっきの続きっていうか……お酒が焔みたいって話……もう少し、したくなっちゃった」ふと、エレネアは「へへっ…」とはにかみ小さな木箱を取り出した。中には、琥珀色の酒瓶と二つの小さなグラス。「今日のために買っちゃった」グラスに注がれた酒は、もう薄く水で割ってあった。二人は肩を並べて、ゆっくりと語らう。
「リュカって、あまり自分のこと、話さないよね」「……俺の話なんか、面白くもなんともない」「……でも、聞きたい」エレネアは、真っ直ぐにそう言った。
夜、静かな室内エレネアは横たわりながら、ふとつぶやいた。
「リュカって……戦うとき、焔みたいだよね」
「……どういう意味だ?」
「熱くて、強くて、でも……どこか寂しそうで。誰かのために燃えようとして、燃え尽きてしまいそうな……そんな焔」
リュカは黙って天井を見つめていた。やがて、ゆっくりと口を開く。
「昔……まだ俺が幼かった頃、セラフィムという女性がいた」「セラフィム……三傑の?」
「ああ。あの人は、王家に連なる自分の立場に甘えず、誰よりも民を思っていた。俺は、彼女に初めて“理想”というものを教わった気がした。……子どもだった俺を、一人の人間として見てくれた唯一の存在だった」
「……王家って、もっと偉そうなもんかと思ってた。」
「俺が“王家”だと、どうして?」
「えっ……?」
(沈黙。焔のゆらめきが、壁に影を描く)
「……えっ、まさか、冗談……じゃないの?」
リュカ(小さく笑って首を横に振る)「冗談なら、もっと面白く言えるさ。でも……厳密には、正式な“王家”じゃない。“遠縁の貴族”ってことにされてるから。」
「……待って、それって……じゃあ、ほんとは……?」
「真実は、城の記録庫の封印の中さ。俺にも見せてもらえなかった。でも、ずっと特別扱いされてた。剣の師も、教養の教師も、みんな俺だけに時間を割いてくれた。子供の頃は、それが当然だと思ってた。」
(エレネアは言葉を失い、目を伏せる)
「……そんな人が、なんでここに?……」
「風が…あの場所が、“本当の力”を教えてくれる気がしたから。王の座や剣の腕じゃ、救えなかった命がある。……俺はその意味を、自分の目で確かめたい。」
リュカの手が、無意識に胸元を握る。
「けれど――ロキに封印が破られそうになった時、セラフィムはそれを止めようとして命を落とした。俺には、何もできなかった。……ただ見ているしかなかった」
「……」
「以来、俺はずっと自らの正義を探している。あのときセラフィムが遺したもの。あの焔が照らそうとした未来が何だったのかを。……そのために、生きている」
エレネアは起き上がり、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
「……あなたの焔、ちゃんと見えてるよ。わたしにとって、あなただって――“理想”を教えてくれる人だもの」
「……エレネア」
「ただ……ちょっとだけ、怖いかな。あなたが、また誰かを救えなかったって言って、自分を責め続けるんじゃないかって……」
リュカは小さく笑った。
「……もう一度、失いたくない。だから、お前は絶対に守る」
「うん」
やがてエレネアは、ぽふんとベッドに倒れこむ。
「うぅ……なんか、くらくらしてきたかも……」
「……ほらな、やっぱりまだ早い」
「……リュカの声、ちょっと響いてる……。でも、こうやって……何も考えずにいられる夜も……悪くないよね……」
彼女の言葉が徐々に溶けてゆく中、リュカは一人、窓の外を見つめていた。風に揺れる灯が、どこか懐かしい――セラフィムの面影を映すかのように、ちらちらと瞬いていた。
翌朝「……うう、いつの間に寝て……あれ、わたし……ベッド…服…?」
「入るぞ」と同時にドアをノックする声。
「やっと起きたか」
「……え、リュカ……?」「
おまえ、自分で服脱いで寝たぞ。オレじゃねえからな」
「な、なに言ってるのよ! ……っ、ほんと……バカ……」
頬を赤くしながらも、エレネアはちらりと視線を向けた。
「……昨日は、ありがと」
「ん?」
「な、なんでもないっ! うるさいっ!」
──話は五年前に遡る。
あの晩、ルシアナは……柔らかな月の光が、祈祷室を照らしていた。蝋燭の炎が静かに揺れ、淡い香の煙が天へと昇ってゆく。
ルシアナは、祭壇の前で膝をついていた。その手に、娘たち――ティアナとサフィアの小さな靴を握りしめながら。
「……この子たちが、いずれ歩む道に、どうか焔を。冷たく暗い夜でも、消えない灯火を……」
彼女の声は、誰にも聞こえない祈りのように細く、優しかった。
「私はもう、その先を見届けることはできないけれど……この世界のどこかで、きっと出会う。あの子たちは、ちゃんと――“何か”を繋いでゆける……」
微かに、蝋燭の火が揺れた。
その揺らめきの向こうに、見えた気がした。誰かと誰かが、遠い未来で出会い、交差し、命を繋いでいく様を――
「……あの二人を見ていると、不思議と、胸に灯がともる気がする」
そうつぶやいたルシアナの眼差しは、すでに遠い未来を見つめていた。
彼女の焔は、やがてティアナとサフィアに受け継がれ、その先でエレネアと出会い、新たな希望となる。
🜂🜁🜄🜃
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