第2話 金貨と絆の賭け

 霧が薄く立ち込める森の街道を、俺とアリアは無言で歩いていた。朝の薄光が木々の間から差し込み、足元の枯れ葉を踏む音だけが静寂を破っている。


 昨夜の洞窟でのやり取りを思い返すと、まだ心の奥底にくすぶる違和感が消えない。


 あの魔獣の血で光った彼女の鱗。


 そして彼女が口にした「呪われた血」という言葉。


 だが、何より俺を不安にさせるのは、彼女の孤独だった。守らなければならない。その想いは確かにある。しかし、俺に守る資格があるのだろうか。


 あの日、爆発に巻き込まれた部下の顔が脳裏に浮かぶ。


 俺の判断ミスで死なせてしまった若い刑事。


 二十五歳の、結婚を控えた男だった。


「なあ、アリア」


 そんな暗い思考を振り払うように、俺は声をかけた。


「お前、昨夜は俺のことを『人間の侵入者』って呼んだな。この世界では、人間とドラゴンは敵対してるのか?」


 アリアは足を止めた。その表情が一瞬曇る。


「......昔は違った」


 彼女の声は小さく、風に消えそうなほど細かった。


「ドラゴン族と人間は共存していた。私の父も、人との友好を重んじていた。だが、それが裏切りを招いた」


 俺は立ち止まり、彼女の言葉を待った。


「五年前、人間の一部がカルトを組織した。彼らは邪神復活のために、ドラゴンの血を求めた。特に王族の血を」


 アリアの拳が震えているのが見えた。


「私は生き延びた。ただ一人だけ。そのせいで、私の血は今も狙われ続けている」


 俺は何も言えなかった。刑事として数多くの悲劇を見てきたが、彼女の言葉には生々しい痛みがあった。


 家族を、仲間を、すべてを失った者の孤独。


 それは俺が部下を失った時の無力感とは比べ物にならないほど深い傷だった。


「だから君は一人でいるのか」


「そうだ。一人でいれば、誰も傷つけずに済む」


 アリアはそう言って歩き始めた。だが、その足取りは重く見えた。


 俺は彼女の後を追いながら考えた。彼女の強がりの裏にある脆さ。それは俺が守りたいと思う何かだった。


 だが同時に、俺は自分の過去に怯えていた。


 また守れなかったらどうする。


 また大切な人を失ったら——。


「でも、君は昨夜俺を助けた」


「......あれは偶然だ」


「偶然にしては、随分と丁寧に介抱してくれたじゃないか」


 アリアの頬がわずかに赤くなったのを俺は見逃さなかった。


「う、うるさい。勘違いするな」


 その照れ隠しのような毒舌に、俺は思わず笑みを浮かべた。


「はは、素直じゃないな」


「何がおかしい」


「いや、君が思ってるほど一人じゃないってことだ」


 アリアは振り返り、俺を見つめた。その瞳に宿る驚きと困惑。


「私は......」


「俺はここにいる。君が望むなら、一緒にいる」


 その時だった。俺の足元で何かが「カチッ」と音を立てた。


 瞬間的に、刑事の勘が警告を発する。


「アリア、下がれ!」


 俺が彼女を押し倒した瞬間、俺たちがいた場所に網が落ちてきた。精巧に作られた捕獲用の罠だ。


「やるじゃない。その反射神経、本物ね」


 茂みから飛び出してきたのは、金髪を肩まで伸ばした若い女だった。革の軽装に身を包み、腰には短剣を二本差している。年は二十代半ばといったところか。だが、その瞳には単なる盗賊とは違う鋭い知性が宿っていた。


「罠を仕掛けたのはお前か」


 俺は警戒して身構えた。


「ご名答。私はレイナ。まあ、盗賊って呼ばれてるけど、正確には『情報収集の専門家』かしら」


 レイナは軽やかに木の枝から飛び降りながら答えた。その動きには無駄がなく、明らかに訓練を受けている。


「情報収集?」


「そう。この森で『黒鱗のドラゴンが人間と行動してる』って噂を聞いてね。興味が湧いたのよ」


 レイナの視線がアリアに向けられた。


「で、そこの美人さん。あんたがドラゴンの王女ね?」


 アリアは警戒心を露わにした。


「......何を知っている」


「色々よ。例えば、アシュヴィン・ゼルティスがあんたの血を狙ってることとか」


 その名前を聞いた瞬間、アリアの表情が凍りついた。俺も緊張する。


「そいつを知ってるのか?」


「知ってるも何も、私を雇ったのはそいつの部下よ」


 レイナの口から出た言葉に、俺は驚愕した。


「つまり、お前は敵か」


「元々はね。でも、計画が変わった」


 レイナは軽く肩をすくませた。


「『黒鱗のドラゴンを生け捕りにしろ』って依頼だったんだけど、実際に会ってみると面白くなってきた」


「面白い?」


「そのお兄さん、只者じゃないでしょ?この世界の人間じゃない匂いがする。それに......」


 レイナの瞳が興味深げに光った。


「カルトの連中は『王女は一人だ』って言ってたけど、あんたには仲間がいる。これは予想外の展開よ」


 俺は考えを巡らせた。この女は確かに危険だが、敵意は感じられない。むしろ、何かを探っているような印象を受ける。


「で、どうする気だ?」


「取引よ」


 レイナがにやりと笑った。


「私はカルトから逃げたい。あんたたちは情報が欲しい。Win-Winでしょ?」


「信用できるのか?」


 レイナの表情が一瞬、暗くなった。


「......正直に言うわ。私、迷ってる」


 彼女は短剣の柄を握りしめた。


「カルトを裏切るってことは、命がけよ。一度でも彼らに背けば、世界の果てまで追われる」


 沈黙が流れる。


 そんな中で、レイナがぽつりと呟いた。


「でも、あんたたちを見てると......昔の自分を思い出すの」


「昔の自分?」


 レイナは空を見上げ、懐かしむような目をした。


「私、元々は大きな盗賊団にいたのよ。『蒼穹の翼』って呼ばれた団体の斥候隊長だった」


 彼女の声には、懐かしさと痛みが混ざっていた。


「でも、団は壊滅した。仲間を守れなかった。それから一人でやってきた」


 俺は彼女の言葉に、自分と同じ痛みを感じ取った。


 守れなかった後悔。


 それは俺も背負っているものだった。


「それで、カルトに?」


「金のため。でも、実際に王女に会って......」


 レイナは俺たちを見つめた。


「あんたたちの絆を見て、考えが変わった」


 アリアが口を開いた。


「信じてもいいのか?」


「分からない」


 レイナは正直に答えた。


「でも、私には選択肢がない。カルトを裏切った以上、もう戻れない」


 その時、レイナの表情が緊張に変わった。


「......やばい。もう来てる」


「何が?」


「カルトの斥候。私を監視してたのね」


 彼女の声が低くなる。


「さっきからずっと、私たちを取り囲んでる」


 俺は周囲を見回した。確かに、木々の影に何かの気配を感じる。


「三人、いるわね。多分、私を始末するついでに王女も捕まえるつもり」


「厄介だな」


「でも、チャンスでもある」


 レイナが短剣を抜いた。


「ここで彼らを始末すれば、カルトに居場所を悟られずに済む」


「戦えるのか?」


「舐めないで。斥候隊長は伊達じゃないのよ」


 レイナの瞳に、プロの戦士としての光が宿った。


「アリア、君はどうする?」


「......戦う」


 アリアが立ち上がった。


「この女が嘘を言ってるかもしれないが、カルトが私を狙ってるのは事実だ」


「よし、じゃあ作戦を立てよう」


 俺は三人を集めた。


「レイナ、敵の位置を教えてくれ」


「東に一人、南に一人、西に一人。北は崖だから逃げ道を塞いでる」


「連携は?」


「多分、合図と共に一斉攻撃。でも、彼らの目的は生け捕りだから、致命的な攻撃は避けてくるはず」


「なら、こうしよう」


 俺は作戦を説明した。レイナが囮になって敵を誘い出し、アリアが上空から攻撃。俺は接近戦で確実に仕留める。


「面白い作戦ね。やってみましょう」


 レイナが不敵に笑った。だが、その笑みの奥に不安も見えた。


「......本当に、やるのね。命がけで」


「ああ。アリアは俺の大切な仲間だ」


 俺の言葉に、レイナの表情が少し和らいだ。


「......バカみたい。でも、嫌いじゃない」


 三人は位置についた。レイナが大声で叫ぶ。


「おーい、隠れてないで出てきなさいよ!バレバレなのよ!」


 その挑発に応じて、黒いローブの男が三人、同時に飛び出してきた。


「やはり裏切ったか、レイナ」


 東から現れた男が冷たく言った。


「裏切ったんじゃない。より良い条件を見つけただけよ」


 レイナが短剣を構えた。


「アシュヴィン様は貴様の裏切りを既に予見しておられる」


 南の男が呪文を唱え始めた。その手に、漆黒の光が蠢くように集まっていく。まるで生き物のように脈打つ暗闇の塊。


「予見?笑わせるわね」


 その時、アリアが上空から炎のブレスを吐いた。彼女の口元から、橙と青が交じる高温のブレスが奔流のように噴き出した。


 空気が焼ける。


 周囲の木々の葉が瞬時に焦げ、焼けた植物の匂いが立ち込める。


 男たちは悲鳴を上げながら四方に散開した。


「今だ!」


 俺は西の男に突進した。刑事時代に身につけた格闘技で、相手の武器を封じる。男は俺の動きについてこれず、あっという間に組み伏せられた。


「ぐあっ!」


 男が倒れる。だが、南の男の呪文が完成していた。その手の黒い塊が、血のように赤い光を帯びて脈打っている。


「『血の呼び声』!」


 黒と赤が混じった禍々しい光がアリアに向かって飛んだ。それは彼女の鱗に触れると、まるで寄生虫のように這い回り、不気味に光り始める。


「きゃあ!」


 アリアが苦痛に顔を歪めた。彼女の鱗が赤黒く変色し、まるで血管のような模様が浮かび上がる。


「アリア!」


 俺が駆け寄ろうとした時、レイナが東の男と激しく打ち合っていた。


「あんた、本当に裏切る気?まだ間に合うわよ」


「うるさい!」


 レイナの短剣が男の頬を掠めた。鮮血が飛び散る。


「私はもう決めたの。カルトなんてクソ食らえよ!」


 だが、南の男の呪術でアリアの動きが封じられている。彼女の身体に巻きついた血の呪いが、徐々に彼女を蝕んでいく。


「レイナ、アリアの呪いを解けるか?」


「無理!あれは『血の呼び声』……王族の血だけが反応する禁呪術よ。術者を倒す以外に解く方法はない……それがカルトのやり口」


 俺は南の男に向かって走った。だが、男は俺を見て不敵に笑う。


「無駄だ。この呪術は王族の血にのみ反応する。お前では解けぬ」


「なら、お前を倒すだけだ」


 俺は男に組み付いた。だが、男は呪文を唱え続けている。その声が次第に大きくなり、周囲の空気が震え始めた。


「『血よ、沸き立て』」


 アリアの苦痛の声が更に大きくなった。彼女の鱗の変色が激しくなり、まるで身体の中で血が沸騰しているかのように見える。


「やめろ!」


 俺は男の喉を締め上げた。だが、男は最後の呪文を唱える。


「『主の元へ、帰れ』」


 その瞬間、アリアの身体が血のように赤い光に包まれた。光は渦を巻いて彼女を包み込み、次第に収束していく。


 転移の魔法だ。


「アリア!」


 俺が叫んだ時には、彼女の姿は跡形もなく消えていた。


 ◇


 アリアの姿が消えた瞬間、世界が一瞬、音を失った。


 ……まただ。


 また俺は、何もできなかった。


 爆発の閃光の中で手を伸ばしたあの日。


 若い部下の、震える瞳。


「助けてください」


 そう言われた気がしたのに、俺は――。


 ……そして今もまた、同じだ。


 俺のすぐ目の前から、大切なものが奪われた。


「ちくしょう!」


 俺は怒りと絶望に任せて男を殴り倒した。拳に血が滲む。同時に、レイナも敵を倒していた。


「やられた......」


 レイナが悔しそうに呟いた。


「あの呪術、『血の呼び声』よ。王族の血を強制的に特定の場所に転移させる禁呪術」


「どこに飛ばされた?」


「多分......王女の故郷」


 レイナの表情が暗くなった。


「アシュヴィンの狙いはこれだったのね。最初から私たちを利用するつもりだった」


 俺は拳を握りしめた。震えが止まらない。


 怒りか、それとも恐怖か。


「俺の責任だ......」


 部下の顔が脳裏に浮かぶ。


 死んでいく時の、最後の眼差し。


 そして今、アリアも同じように——。


「自分を責めてる場合じゃないわ」


 レイナが俺の肩を叩いた。


「まだ間に合う。儀式は新月の夜って決まってる。今日は二十七日だから、三日後ね」


「三日で間に合うのか?」


「ドラゴン族の故郷まで、馬で二日。ギリギリよ」


 俺はレイナを見つめた。


「なぜ、そこまでしてくれる?」


 レイナはしばらく黙っていた。風が彼女の金髪を揺らしている。


「......あの子の顔を見てたら、昔の自分を思い出したの」


 彼女の声が小さくなる。


「私も昔、大切な人を失った。盗賊団の仲間たちを」


 初めて深い感情が込められた声だった。


「あの時の私は、あの子と同じ顔をしてた。絶望と怒りで心が真っ黒になって」


「......」


「でも、誰かが私を引き戻してくれた。今度は私が、あの子を引き戻す番かもしれない」


 レイナは俺の手を握った。その手は意外に温かかった。


「それに......あんたも同じでしょ?守れなかった人がいる」


 俺は驚いた。


「なぜ分かる?」


「あんたの眼よ。私と同じ。大切な人を失った人の眼をしてる」


 俺は何も言えなかった。


「でも、まだチャンスはある。今度は失敗しないって、誓えるでしょ?」


 俺はレイナの眼を見つめた。その瞳には、確かな意志が宿っていた。


「......ああ。約束する」


「何を?」


「アリアを必ず助ける。そして、アシュヴィンを止める」


 レイナが微笑んだ。


「よし。じゃあ行きましょう。あの子は、きっと私たちを待ってる」


 二人は倒れた敵から馬を奪い、ドラゴン族の故郷に向かって駆け出した。


 ◇


 同じ頃、深い山奥にある古い遺跡では、蝋燭の灯りが幻想的な影を壁に踊らせていた。円形の祭壇の中央に、アリアが横たわっている。彼女の手足には魔法の鎖が巻かれ、身動きが取れない状態だった。


「目覚めたか、王女よ」


 祭壇の向こうから、黒と金のローブを纏った男が現れた。アシュヴィン・ゼルティス。その鋭い眼差しは、まるで全てを見透かすかのように冷たく光っていた。


「アシュヴィン......」


 アリアが憎しみを込めて呟いた。


「五年ぶりだな。随分と美しくなった」


 アシュヴィンの声は穏やかだったが、その奥に狂気が潜んでいるのをアリアは感じ取った。


「何が目的だ」


「目的?」


 アシュヴィンが首を傾げた。


「私の目的は常に一つだ。この腐敗した世界の浄化」


 彼は祭壇に近づいた。その足音が静寂に響く。


「君の血を使って邪神を復活させ、全てを一度リセットする。そして理想の世界を築くのだ」


「狂ってる......」


「狂気と正義の境界など、曖昧なものだ」


 アシュヴィンが薄く笑った。


「君にも分かるはずだ。家族を失った痛みが」


 アリアは何も言えなかった。確かに、彼女も復讐を考えたことがある。


「だが、君にはまた新たな仲間ができたようだな」


「.....クロサキたちを巻き込むな」


「巻き込む?」


 アシュヴィンは魔術でチェス盤を出現させた。空中に浮かぶ精巧な駒たち。


「彼らは自分の意志で来るのだ。君を救うために」


「なぜ......なぜそこまでして」


「愛する者を失った者にしか分からない痛みがある」


 アシュヴィンの声に、一瞬だけ感情が込められた。


「私にも……かつて守るべき者がいた」


 アシュヴィンは静かに祭壇のそばの燭台に手をかざした。


 その手は、かすかに震えていた。


「白いドレスが好きだった。花を摘むのが得意でな……。だが、それが最後の記憶だ」


「エリーシャ……」


 その名を呟いた時、アシュヴィンの瞳から色が消えた。


 アリアは彼の瞳に宿る深い悲しみを見た。それは自分と同じ、愛する者を失った痛みだった。


「彼女は権力者どもの欲望の犠牲になった。その時、私は悟ったのだ」


 アシュヴィンはチェス盤を消し去った。


「愛する者がいれば、それが弱点となる。君の仲間たちも、君への愛が破滅を招くだろう」


 アリアの瞳に涙が浮かんだ。


「彼らは関係ない」


「そう信じたいのだろう。だが、現実は違う」


 アシュヴィンは祭壇を後にした。


「新月の夜まで、あと二日。それまでゆっくり考えるがいい」


 ◇


 アリアは一人、闇の中に取り残された。


「クロサキ......レイナ......」


 彼女は小さく呟いた。


「来ないで......お願いだから」


 だが、その祈りが届くことはないと、彼女は知っていた。


 なぜなら、彼女自身も同じ立場なら——。


 きっと同じことをするから。


 新月の夜まで、あと二日。全ての運命が交錯する時が、刻一刻と近づいていた。

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