花天月地【第61話 君を呼ぶ声】

七海ポルカ

第1話



 雨がまた強くなった。

 しかし火は立ち上っている。

 一体、これは何を火種に燃え上がっているのだろうか。

 そう考えると、立ち止まっていられなかった。


 黄巌こうがんはしゃがみ込んで項垂れたまま、声を発していない。

 徐庶じょしょは友の肩に触れた。


「……君はここにいてくれ。周囲を見て来る……」


 返事も反応も無かったが、それ以上声を掛けられなかった。

 徐庶は馬をそこに置いたまま、周囲の様子を探りに行った。


 どこか、火の勢いが少ない場所がないかと探したが、やはり村全体に火を放たれている。

 北で見たのと同じだ。

 そして徐庶が過去、似た死体を見たのは東の冀州きしゅう、確か楽陵らくりょうあたりのことだった。

 涼州のほぼ反対だ。

 あまりに離れている。

 同じ人間の襲撃のように思えるのに、縁が見えてこない。


 それにあの時は、見えない敵は悪徳領主を狙っていたのだ。

 手口は残忍だったが復讐の理由があれば、怒りや執拗さの理解は出来た。


(だけど)


 この村は、徐庶も陸議りくぎと偵察に来た。

 余所から来た者を警戒することも無く、旅人はこの時期大歓迎だと、どの村人も親しげに自分達を迎えてくれた。

 穏やかで、平和な村。

 こんなやり方で焼かれなくてはならないとは到底思えなかった。

 

 手口は似ていても、狙う相手が違いすぎる。

 何故だ。

 自分は何かを見落としているのだろうか。


 もう一度深く考えてみようと徐庶は目を閉じた。


 このままでは黄巌こうがんに何も言ってやれない。

 この先どうすればいいのかを。



 集中しようとした徐庶は確かに一瞬、隙を見せた。



 すぐにハッと目覚めたが、遅かった。

 首元にギラと刃の輝き。

 炎が映り込んで、赤く光っていた。


 

「動くと怪我をするよ」



 声が聞こえて、徐庶は狼狽する。


「……っ、郭嘉かくか殿⁉」


 何故ここに。そう思って、気にしなければならないのはそんなことではないと思い直す。

「一体何を……」


「……これは随分意外な展開になってきたね」


 喉元に突きつけられた刃を避けるように首を反らし、横を必死に見ると辛うじて燃え上がる村をジッと見つめる郭奉孝かくほうこうの横顔が見えた。

 誰も想定していなかった襲撃だろうが、郭嘉の顔からは驚きは見られなかった。

 彼はいつもより冷たい横顔のまま、じっと炎の方を見ている。

 

「それはともかくだ」


 郭嘉は捕縛した徐庶に刃を突きつけたまま、言った。


「君はやはり情に脆いね、徐庶君。

 涼州のことは涼州の人間に任せておけばいいのに、黄巌こうがん君について行ってあげたいなんて言ってしまうのが君の弱さだよ。

 曹操そうそう殿も君のその、中途半端に情に弱いところは随分嫌っていた。

 しかし怒りを露わにしてくれる曹操殿など、まだいい方だ。

 司馬懿しばい殿や賈詡かくは怒りもしてくれない相手だということ、君はまだ分かっていないようだね。ここまで君が涼州と黄風雅に肩入れしてる様子を見せたら、彼らが次に何を考えると思う?」


「……、」


 郭嘉はよく人をからかって遊ぶ悪癖を持っているが、徐庶の首元に突きつけられた刃の力は本当だった。

 脈の上に正確に押し当てられている。

 それに彼が纏う、この気配だ。


 時折郭嘉は、人を寄せ付けないような孤高の空気を纏うことがあるが、

 あの静けさは彼の本質でも何でも無かったのだ。


 刺すようなこの気配。

 覇気だ。

 この気配を剥き出しにしている彼は、初めて見た。


「ここまで君が涼州に心を寄せたら三日後、司馬懿しばい殿が涼州騎馬隊殲滅の命令を出した時に、大人しく了解いたしましたと言う相手だとは彼らは思わないだろう」


「……私は……司馬懿殿に刃向かう気はありません」


「――そこだ」


 ぐいと郭嘉が徐庶の肩を掴み、木に押しつけた。

 剣は徐庶の首筋の脈に押し当てられたままである。


「だったら共に行くなどと、口にしなければ良かったんだ。

 黙って黄巌を見送り、成り行きに任せれば良かった。

 君は自分を冷静な人間だと思っているようだが、私から見れば、君は根は、相当な激情家だと思うよ。

 君が黙っていれば、司馬懿殿や賈詡が今は涼州側の様子を見ようと、勝手に君を派遣したかもしれない。

 そうすれば彼らは情があっても君は冷静に物事を捉え、反意は見せない相手だと認識しただろう。

 だけど君は黄巌こうがんを哀れだと思う感情で動いた。

 そのことで彼らに、自分達に逆らうかもしれない人間だと印象づけたんだよ。

 賢い人間ならあの二人は絶対敵に回さない。

 彼らは反意を見せる可能性があると認識させるだけでも、危険な相手だ。

 場合によっては、そんなことが起こる前に手を打つことも有り得るからね」


「…………その、忠告を私に与えに、貴方はわざわざここまで……?」


 郭嘉は冴えた目を見せた。

 

 彼は子供の頃から曹操の側にいたという、特殊な背景がある。

 だから曹魏の軍では古参のように扱われるが、実は五年の間完全に表舞台から姿を消していたため、少年期と青年期の狭間の記録が、魏軍において抜け落ちていた。

 以前の郭奉孝かくほうこうの記録は五年前に遡り、魏軍において通常、評価を受ける時期がそこから消えている。

 そして五年の沈黙の後、再び魏軍に戻ったことで「十代の頃は才気溢れるのを見たが」とは言われても、現在彼が軍策においても戦場の剣や、勘においてもどの程度のものなのか、実は正確に把握している人間はごく限られていた。


 つまり、魏において圧倒的な存在としての信頼感はあるが、

 

 ――謎めいているのだ。


 何においても優れているとは徐庶も聞いていたが、

 大いにそれは曖昧な表現なのだ。


 適度に優れていることと、

 抜きん出ている才かは、

 戦場において生死を分けるほどの違いになる。


 郭嘉は剣も優秀に使うと言われていたが、徐庶がこの時感じた彼の気配は文武両道などという穏やかな領域では無く、人を斬ることに慣れているような領域の殺気を伴っていた。


「勿論違う。

 私も同じ旗の許にいながら、公然と他の旗を想うような人間は嫌いだからね。

 実のところ司馬懿殿と賈詡がそうしたいというのなら、

 君が三日後を待たず暗殺されようと、さほど私は興味は無い」


「なら何故です」

「君に頼みたいことがあるんだ」


 一瞬、襲いかかって来るような鋭い気配を見せた郭嘉が微笑んだ。


「君の友達。あの黄風雅こうふうがという男のことだ」


 何を言われるのかと思っていた徐庶は思わず郭嘉の目を見返していた。


風雅ふうが……?」

「彼とは五年前に会ったと言っていたね。その時に初めて会った?」

「そうです」

「それ以前の彼を、君は知らないんだね」

「知りませんが……ですが、彼は涼州の民だ。涼州の各地を行き来して方々に人脈もあります。怪しい素性じゃ無い」


「そう。それが君の現在の、彼という認識なのは分かった。

 だが私の見立てでは、彼は凡庸な涼州の民びとではない。

 何か事情を抱えているはずだ」


 徐庶の瞳が揺れて、困惑している。


 五年前、自分は追われる罪人としての立場で涼州に来た。

 事情を抱えていたのは徐庶の方であまり自分のことを話せなかったが、黄巌は無理に話さなくていいよと根掘り葉掘り聞かないでくれた。


 黄巌こうがんは知り合いが多く、この辺りの村では、どこへ行っても彼のことを知っている人達がいた。

 怪しい人柄だったらそんな風にはならない。

 黄巌を知っている人達も同じように怪しいところがなく、涼州に家を持ち実際そこに住んでる人々だ。


「何かの間違いでは……?」


 自分が疑われたらきっと黄風雅こうふうがはそう言ってくれるだろうと思い、徐庶はそう言った。

 郭嘉の態度からして、曖昧な理由で言ってないことは分かったが、

 それでもやはり否定しか出来なかった。


「実は彼を、私の実家で見たことがあるんだ。

 うちに出入りしていた商隊の中に、彼を見たことがある。

 正確な時期は分からないがここ二、三年のことだ。

 私は五年、潁川えいせんの屋敷から一歩も外に出られなかったからね。

 彼の顔に見覚えがあった。

 私が涼州に関わったなら潼関とうかんの戦いだと思ったが、あれは九年前だ。

 九年前なら黄巌君も、もっと若かったはずだが記憶には今とほぼ変わらない顔で残っている。

 君には彼がどういう理由で私の実家に姿を現したのか、それとなく聞き出して欲しいんだ。

 くれぐれも私から依頼されたことは口に出さないようにして欲しい。

 潁川の名も君からは出しては駄目だ。

 に商いに入ったことがあるかどうかをまず聞いてくれ。

 頷いたらどういう商いかを聞き出して欲しい」


「郭嘉殿、彼は今そんなことを聞ける状況じゃ……」

「それでもやるんだ。」


 徐庶の首筋に刃が僅かに食い込んだ。

 小さな赤い血が玉になり、少し伝い落ちる。


「……黄巌こうがんの素性を疑っているんですか」


「そう。そして疑いを晴らすのが君の使命だ。

 晴れなかった時は、友達と仲良く死ぬといい」


 郭嘉がサッ、と短剣を横へ走らせた。

「っ!」

 繊細に、徐庶の首の皮を、一筋傷つけた。

 もう少し深ければ血が吹き出していただろう。

 

 郭嘉は軍師だが剣の腕も相当だ。

 徐庶には今の剣の扱いだけでも、それが分かった。

 斬られた首筋に手の平を押し当てる。


「君が彼から、私の満足するような答えを聞き出してくれたら、

 司馬懿殿や賈詡が君に牙を剥かれる前に先手を打って始末したいと言った時には、

 私がそうするべきではないと彼らに口添えをしてあげよう。

 私がそう言えば、そうできる」


「……。」


「念を押しておくけれど、君が黄巌こうがん君に同行を申し出たのは大きな間違いだ。

 あれで司馬懿しばい殿と賈詡かくは君に大きな不信感を抱いた。

 賈詡の言葉を聞いていたよね?

 涼州騎馬隊はいずれにせよ目障りなんだ。我々にとっては。

 正体不明の【北の悪魔】のおかげで、我々は手も汚さず堅牢な金城きんじょうを落としたことになった。

 本来なら北から彼らを引きずり出すことそのものが厄介な軍事作戦だったけれど、労も無くそれは達成された。こんな機を理由も無く逃す軍師は、軍師じゃない」


 歩み去って行く音。あるところで一度止まった。


「……君はこういう脅しには屈しないし、逆に反発するんだったね」


 徐庶が首を押さえたまま、郭嘉の方を見る。


「私の命に関わることだから、くれぐれも極秘で確かめて欲しいんだ。

 君を見込んでるんだよ。

 もちろん自分で出来ることならそうしたいんだが、そう出来ない理由がこの件にはある。

 私が唯一、強く自我を持っても動き回れなかった時期のことだから」


「……黄巌こうがんは貴方の敵じゃない」


 郭嘉かくかは振り返った。側で村が燃えているのに、

 意にも介さず彼は静かに微笑んでいる。


「君だって私の敵じゃない。

 でも過去に劉備りゅうびの許にいて【八門金鎖はちもんきんさ】の陣を破って魏軍に楯突いている。

 人間は不思議な場所に導かれることはあるんだ。

 その人にそぐわない不思議な場所でも。

 そのことは私はよく理解している。


 私は額面通りの敵味方を君に判断して欲しいわけじゃない。

 彼が何の使命を負って潁川えいせんの、私の家にいたかだ。

 何を聞いても決して誰にも口外無用だ。

 口は災いの元だよ。徐庶君。


 信頼出来る人間に対しては、私もきちんと礼節は見せる。

 私の期待に応えてくれたら君を魏軍において悪いようにはしない。

 例え長安ちょうあんに戻っても、君が好きな場所で働けるように便宜は図ってあげよう」


「……。」


「君には話したね。

 まだ未来は決まってないと」


 徐庶はその時、決して他人に弱さを見せない郭嘉が、

 本来誰の助けも必要としない彼が、

 理由は分からないが、

 何かを強く感じ取って、そのことで自分に助けを求めているのだということが分かった。


 そういうように見せていないが、


 切実であり、

 取り繕いきれていない。 


 他の者に願えなくて自分に願ったのだ。

 そしてそうは、本来したくなかったのだろう。

 しかし黄巌こうがんに信頼されているという点で、自分に願うしか無かったのだ。


 その必死さを隠そうとして、

 郭嘉が妙に高圧的な人格を演じたように、徐庶には感じられた。



「君が自分の力で未来を変えられる人間かどうか。

 これで全てが決まる。

 期待しているよ。

 徐庶君」



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