辻褄
小狸
短編
「自分の言動は、全部自分に返ってくる」
とか。
「悪いことをしたら、必ず罰される」
とか。
散々、まるで毎日呪詛のように「現実は厳しい」だの、「現実は辛い」だの、「現実は苦しい」だのと主張してくる大人たちが大勢いる中で、しかし残念ながら、そういう現実味が一切含有されていない言葉が信じられているのもまた、事実である。
令和の今、亭主関白、男尊女卑、その他不可解な習わしなど、そういう歴史の闇の遺物は消えてゆく傾向にある。
一方で、未だ前述のような、
因果応報。
そんな超常的な、神みたいな存在、
私がいじめを受けていた時、誰も助けてくれなかった。
私のお父さんと呼ぶべき人から殴られた時、誰も助けてくれなかった。
私のお母さんと呼ぶべき人から罵倒された時、誰も助けてくれなかった。
私の居場所はどこにもなく、救いも何もなかった。
小学生ながら思ったものである。
ああ――こういう時に、人間は宗教にのめり込むのだろうな、と。
誰かに縋る、誰かのせいにできる、誰かのお蔭にできるというのは、とても幸せなことなのだろう、と。
結局どこにも入信することはなかったけれど。
烈火のような小学校、地獄のような中学校時代を終えて、私にはもう、そんな勇気も残っていなかった。
残滓を何とかかき集めて、人間っぽい台詞を喋って、高校を卒業した。
そこで私は、力尽きた。
生きる気力が、燃え尽きたのである。
契機は、成人式であった、と今となって思う。
私をいじめていた連中は、私を貶していた集団は、私を笑っていた人たちは。
とても幸せそうに――生きていた。
皆で楽しく笑って、可愛くお化粧して、一緒に写真を撮って、きゃらきゃらと笑っていて、幸せそうで、楽しそうだった。
何が因果応報だよ、と、思った。
天罰は下らなかったんじゃないか。
どうして不幸そうな顔をしていない。
何私を差し置いて幸せそうな顔をしているんだ。
私は、お前らから受けた傷を一生引きずって生きていけと、精神科医から言われて絶望しているというのに。
それでも生きろと、周りの恵まれた奴らから、散々言われて言われて、自殺さえ許されないというのに。
私のほとんどを、お前らから奪われたというのに。
どうしてお前らは、何も奪われていないのだ。
死ねよ。
せめて、それくらいの罰は受けろよ。
そう、思った。
思っただけで、それは叶いはしない。
ああ、そうか。
こういう恵まれて、幸せで、満たされて、人にどんな傷をつけても許されるような奴らは、きっとこれからも、恵まれて、幸せで、人にどんな傷をつけても許され続けるのだろう。
家庭内不和もなく。
暴力を伴ったいじめを受けることもなく。
教師の無理解もなく。
私の知らないところで、私が知っていたとしても、幸せに生きるのだ。
成人式では、誰も私に話しかけなかった。
まさか私が来るとは思っていなかったのだろう。
ひょっとすると生きているとすら、思わなかったのかもしれない。
二次会のクラス会には、行かなかった。
単純に同期とこれ以上密接に会いたくなかったし、当時の担任にも私は嫌われていただろうから、行きたくなかった。
式終了と同時に早々に、私は会場を後にした。
お母さんに「どうだった」と聞かれて、「楽しかった」と返した。
お母さんは、道中、誰々ちゃんはどこの大学に進学したとか、誰々君は医学部に進んだとか、そんな話ばかりをしていた。
もう何も見たくない。
この世は物語のようにはいかない。
辛いなあ。
そう思った。
そんな思いも、どうせこの世の中では、無かったことになるのだろう。誰も拾ってはくれないのだろう。
それからしばらく経過したある日、私は書店に赴いていた。
物語の世界に逃げていた私は、ふと、最近の小説にある傾向を見出していた。
生きづらさを抱えた主人公。
それを解消してくれる周囲の存在、仲間、集団たち。
そんな構図ばかりが、ありありと浮かんできた。
ああ、そっか。
私は、気付いた。
私のこの生きづらさは、辛さは、苦しさは、もう、エンタメとして消費される時代になったんだ。
恵まれて、幸せで、満たされて、人を傷つけることを許された人たちは、私のこの人生をも、きっと娯楽作品の虚構として、扱ってしまうのだろう。
辛さなんて知らずに、苦しさなんて経験せずに。
そう思って――思った途端に、肩の力が抜けていくようだった。
自分の今までの人生が、ガラガラと音を立てて崩れていった。
もう何をしたところで、恵まれた人たちには届かない。
何もかもどうでも良くなった。
それまで惰性で続けていた就職活動を止めた。
意味がないと思ったからである。
どうせ選ばれるのも、恵まれて、幸せで、満たされた人間であるに決まっている。
それを知って傷つくくらいだったら、初めから同じ土俵に上がらなければいい。
そして宙ぶらりんになって、どうでも良くなって、精神科での服薬を続けながら、8月になった。
「あー、死の」
当たり前のように、私はそう思った。
一人暮らしの、一人の部屋の中で、天井を見ながら、私はそれを、口にした。
8月5日の、10時頃のことである。
誰も止める者はいなかった。
誰も拾う者はいなかった。
誰も助ける者はいなかった。
誰も支援を求める者はいなかった。
詰んでるって、コレ。
それもまた、私の人生らしい。
本当は首を吊ろうと思ったのだけれど、残念ながら私の部屋には、人一人の体重に耐えきれるだけの引っ掛かりがない。
なので、今日の夕食の後に、キッチンの下にある包丁を取ってきた。
きっと痛いのだろうが、今までの私の、そしてこれからの私の痛みと比べれば、こんな痛み、大したことないだろう。
そう思うと、不思議と怖さが消え去っていった。
夏だから、腐乱臭が広がりやすい。
死んだ後にぐちゃぐちゃ、というのも嫌である。
せめて、クーラーを付けておこう。
冷房のスイッチを入れた。
ひんやりと冷たい風が、私の背中の辺りに触れた。
(「辻褄」――了)
辻褄 小狸 @segen_gen
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