奇天烈歯医者の事件診療録 顎ズレ殺人事件/噛み合わせの死角

奇天烈 龍齒

第1話 死者の口元

八月の終わり、夜明け前の湖畔はしんと静まり返っていた。

白い靄が水面を這い、遠くの山並みをぼんやりと覆っている。湖のほとりに建つ別荘の窓から、青白い灯りが漏れていた。そこが事件現場だった。


「……やれやれ、朝から厄介な呼び出しだな」


僕——五十嵐俊彦は、現場前の石畳に立ち、靄の中で煙草を吹かす刑事の背中を見つけた。


「おう、五十嵐。悪いな、こんな時間に」


振り返った梶谷刑事は、まだ寝不足の目をしていた。地元署の叩き上げで、僕とは数年前の事件以来の顔なじみだ。


別荘の玄関をくぐると、冷房の効きすぎた空気が肌を刺した。広いリビングの奥、寝室のドアが半開きになっている。その向こうに、白いシーツの上で仰向けに横たわる男の姿があった。


「瀬川啓介、五十二歳。地元の建設会社社長だ」


梶谷が淡々と説明する。


「第一発見者は?」


「愛人の高森玲奈。夜明けに様子を見に来たら、もう息してなかったらしい。医者が診たところ、急性心不全だとよ」


僕はベッドに近づき、男の顔を覗き込んだ。ふくよかな頬、整った口ひげ。だが、その口元に目をやった瞬間、ある違和感が全身を走った。


(……おかしい)


瀬川の下顎が、ほんのわずかに後ろへ引っ込んでいる。唇の閉じ方も不自然だ。


僕はベッド脇に置かれた小さな透明ケースに気づく。中には、歯型に沿った白いマウスピースが入っていた。


「これ、何だ?」


「寝るときに使ってたらしい。玲奈の話じゃ、最近顎が痛くて噛み合わせを治療してたとか」


梶谷は大して気にしていない様子だ。


僕は手袋をはめ、マウスピースをそっと取り出した。表面を指でなぞると、前歯のあたりに微妙な段差がある。新品ではない、だが使用痕にしては削れ方が不自然だ。


「ねえ梶谷、瀬川さんって心臓に持病があった?」


「軽い不整脈と高血圧だな。それがどうした」


「持病持ちが急に顎の位置を変えたら、場合によっては命取りになる」


「……何だそりゃ。歯医者のホラ話か?」


「ホラかどうかは、これから確かめるさ」


視線をベッドの脇に移すと、小さな木製のサイドテーブルに水の入ったグラスと、錠剤の残りが二粒だけ置かれていた。睡眠薬だ。その横には、爪切りと、小さなビニール袋に入った歯科の切削用インスツルメントバーがあった。


「研磨用……?」


僕は眉をひそめた。この場に不釣り合いな品だ。マウスピースを調整するために使ったように見える。


背後から、かすれた声がした。


「社長は……私のせいじゃないわ」


振り返ると、黒髪を後ろで束ねた女が立っていた。高森玲奈だ。白いブラウスにジーンズ。泣き腫らした目が、かえって作り物めいて見える。


「社長、最近よく眠れないって……だから私がマウスピースを持ってきたの。歯医者に行く時間もないって言ってたから」


「あなたが作ったの?」


「私、歯科技工士なので…。でも今はやってないわ」


その声は震えているようでいて、どこか平板だった。


僕は視線を梶谷に送った。刑事は小さく首を振り、まだ事件性はないとでも言いたげだ。だが、僕の中では警鐘が鳴り始めていた。顎の後退、持病、そして歯科の切削用バー。これらが偶然に同じ部屋にある確率は、限りなく低い。


「梶谷、このマウスピース、押収できるか?」


「……お前がそこまで言うならな。ただし、変な推測で警察を振り回すなよ」


「心配するな。証拠がなければ、僕だって動かないさ」


僕はケースにマウスピースを戻し、再び瀬川の口元を見つめた。下顎のわずかな後退。それは、死の直前に何らかの力で強いられた位置に見えた。


——噛み合わせのズレが、人を殺すことがある。それを知っている人間は、そう多くない。

だが、ここに一人、その知識を悪用できる人間がいるようだ。


窓の外、湖面の靄がゆっくりと晴れていく。だが、この部屋の中の靄は、まだ濃くなるばかりだった。

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